熱愛中の恋人までの道のりは遠い

 翌日。

 スキップしながら食堂に向かっていたヴィオラは、廊下で待ち構えていたローレンスに無駄に輝く笑顔で迫られた。そして「婚約者殿、俺との食事を忘れたとは言わせないよ?」と問答無用でサロンに連行された。口には出せなかったため、食堂のメニューで頭がいっぱいだったことを心の中で謝罪した。

 在学中の王族はローレンスだけなので、王族専用のサロンは貸切状態だ。

 豪華な調度品がずらりと並ぶ一室は重厚感があり、調度品にうっかり触れないようにしなければと自分を戒める。


「ここには他の生徒はいない。楽にしてくれ。話をする前に食事にしよう」

「……っ!」


 促されて座っていると、芸術品と見紛う料理ばかりが運ばれてきた。

 海の幸と山の幸の盛り付け方からして違う。ローストビーフはまるで花が咲いたかのよう。ここは美術館か。ちょこんと載せられた食材の周りには特製ソースで美しい模様が描かれている。おしゃれすぎる料理名は無駄に長く、右から左と抜けていく。まったく覚えられそうにない。

 ヴィオラはおそるおそる温かいクロワッサンを手に取った。そして、一口食べて目を丸くした。こんがり焼けたクロワッサンはバターの香りが強く、サクサクとした食感は控えめに言って絶品だった。小麦粉やバターも外国産のものを使っているかもしれない。焼き立てという最高の条件を差し引いても、こんなに美味しいものは食べたことがない。

 最初こそ王族を前に食事マナーのテストではないかと戦いていたが、目の前の豪華な料理に理性が吹っ飛んだ。王子と同席しているという緊張感は霧散し、ヴィオラは一口一口を味わって食べた。感動で震えたのは初めてかもしれない。

 未知なる喜びの連続に、小声で「……なにこれ、美味しすぎて涙が出てくる」「ここが楽園か」「どの味もハイレベル……」と感嘆のため息をついた。実に罪深い味だった。

 苺ソルベまで平らげて幸せの余韻に浸っていたら、食後の紅茶を飲んでいたローレンスが口を開いた。


「さて。ヴィオラ嬢、そろそろ今後の方針について話し合おう」

「……! わ、わかりました。どうぞ」

「まず、この偽装婚約の最終目標を確認しておきたい」


 重苦しい口調で言われ、ヴィオラは背筋を伸ばした。

 先ほどは食欲に負けて目的を見失っていたが、自分の役目は第二王子の婚約者役だ。これは言わば彼の身を守るための作戦会議なのだ。集中しないと。

 ヴィオラはすぅっと息を吸い込み、教師から「では、この問題に答えなさい」と当てられたときのように淀みなく答えた。


「花婿にされたローレンスさまが愛玩動物にされるのを防ぐため、偽の婚約者を用意し、セリーヌ皇女にすっぱり諦めてもらうこと、ですよね!」


 ハキハキとした口調で言ったのに、なぜかローレンスは表情を曇らせた。まるで、うっかり苦手な食べ物を口にしてしまったように。


「…………他人の口から言われると微妙な気分になるが。まあ、そういうことだ」

「帝国から婚約を断る防波堤としてのお役目はどんとこいですけれど、具体的にはどういう感じで攻めていきますか? 仲良しアピールが必要ですよね?」


 ヴィオラの問いに、ローレンスは頷いた。顎下に指を添えながら思案顔になる。


「ああ。どうせするなら、他者が入る隙がないぐらいのやつがいいな。お互いのことしか見えていない甘い雰囲気が出せれば、尚のこといい。プライドが高いセリーヌ皇女も袖にされ続ければ他の男を選ぶだろう。彼女の性格は知っている」

「ほうほう。仲がよろしいのですね」


 王族の交友関係までは把握していないため、友達から噂話を聞くようにふんふんと頷くと、ローレンスは眉を寄せて横を向いた。それから、げんなりとした声が続く。


「つきまとわれていた、の間違いだ」

「あら、そうなのですか? それは大変でしたね」

「…………。ヴィオラ嬢、先に伝えておく。安っぽい演技でセリーヌ皇女は騙せない。やるからには本気で事に当たらねばならない。できるか?」

「はい。誠心誠意、努力いたします。今夜から寝る前に恋物語集を読むことを日課にします。ひとつずつ、恋人らしい振る舞い方を実践してみましょう」

「それはいいな。俺も読んでみよう。来週、オペラでも観に行くか? 演技の見本としてこれ以上にない教材になると思う」

「まあっ! よろしいのですか!? ぜひ行ってみたいです!」


 前のめりで顔を近づけると、ローレンスが焦ったように両手で座るように促す。


(……はっ! しまった。常識的な距離じゃないといけないんだった)


 前日に受けた注意を思い出し、しずしずと着席する。

 その様子をじとっとした目で見られ、ヴィオラは咳払いで誤魔化した。


「ごほん、失礼しました。セリーヌ皇女殿下がいらっしゃるまで、あまり時間の猶予がございません。短期決戦の構えで参りましょう。ひとまず恋人らしい振る舞いとして、呼び方から変えてみませんか? どうぞヴィオラと呼び捨てにしてください」

「なるほど。では、俺のこともローレンスと」

「……お名前で呼んでもよろしいのですか? いくら便宜上の婚約者になるとはいえ、殿下とは昨日が初対面でしたし、さすがにちょっと不敬が過ぎるような……」


 こちとら王族のパイプなど何一つない、田舎貴族の娘だ。

 ぽっと出の子爵令嬢が王子に見初められたという建前を用意しても、王族へ不敬を働いてもいい免罪符にはならない。王子が自分のお気に入りを呼び捨てにするのと、ヴィオラのような小娘が王族の名前を直接口にするのは天と地ほどの差がある。恐れ多いにもほどがある。

 殿下呼びで我慢してもらいたいなと思っていると、ローレンスは先回りするようにヴィオラの懸念を取り除く。


「周囲が納得できるほどの親密さを出すためには、他人行儀な呼び方では勘ぐる者も多いだろう。俺たちは本物の恋人になりきらなくてはならない。物理的距離は少しずつ縮めていくとして、口調ぐらいは恋人らしさをアピールしても問題ない」

「…………確かにそうですね。では、ローレンスさま。明日からは婚約者役をしっかり務めさせていただきますので、細かい点はその都度調整していきましょう」

「そうだな。よろしく頼む」


 席を立ったローレンスが右手を差し出す。

 この偽装婚約は、彼の人生がかかっている。誰かを騙すことはよくないが、人としての尊厳を損なう危険を回避するためなら話は別だ。

 秘密の共犯者として、ヴィオラは彼の手に自分の小さい手を重ね合わせた。


 ◇◆◇


 さらに翌日。

 食堂のテラス席での昼食に誘われていたヴィオラは、生徒や教師の衆目を集める中、淑女らしい微笑みを貼り付けてローレンスに近づいた。周囲は遠巻きに見ているだけで会話が聞き取れる距離ではないが、王族に対して不敬と取られる発言には注意しなければならない。

 一歩引いた感じで、エレガントに。


「殿下、本日はお日柄もよく……」

「ヴィオラ。俺のことはローレンスと呼んでくれ、とお願いしただろう?」

「失礼しました、ローレンスさま。太陽の光を浴びて輝く御髪は、まるで天から遣わされた神々のよう……」

「そういう世辞は今後は一切不要だ。仲のいい友達感覚で喋ってくれて構わない」

「え? ですが」

「むやみやたらに飾り立てる言葉は聞き飽きている。頼むから普通にしてくれ」


 真顔で願われたら、首を横に振るわけにもいくまい。

 無礼がないように細心の注意を払っていたが、本人からの要請であれば致し方ない。ヴィオラは眉尻を下げて謝罪した。


「お気を悪くさせてしまい、申し訳ございません。もっとフランクな感じでいきますね。ええっと……では。やあ、ごきげんよう愛しの婚約者殿」

「ちょっと待て。それは男性側の台詞だろう」

「……あれ?」

「何を不思議そうな顔をしている。君は淑女だ。自分の性別を忘れてはいけない」

「そうでした。恋仲であると強調される台詞を考えていたら、つい。ラブラブな雰囲気を出せるような女性側の挨拶を考えます。……ローレンスさま。どうか、もう一度チャンスを」

「失敗は成功のもととも言う。何度でも挑戦するがいい」


 ローレンスは鷹揚に頷く。後ろで給仕の準備をしていた従者は遠い目をしていた。

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