偽装婚約の申し出
「なっ!?」
「君は一体……」
ヴィオラはベンチの前に進み出た。動揺する彼らに不審人物ではないことを証明するため、腰を落として淑女の礼をする。
素に戻ると令嬢らしからぬ言動になるが、これでも淑女教育は一通り施されている。気を張っていれば、ちゃんと貴族らしい言葉だって話せるのだ。ちょっと気疲れするだけで。
「お話の最中に割り込んでしまって申し訳ございません。セルフォード子爵が長女、ヴィオラと申します。実は、父から婚約者を決めろとせっつかれて非常に困っているのです。女の結婚適齢期は短い。父の心配も理解していますが、わたくしは恋愛結婚を望んでいます。ですが、まだ相手は見つかっておりません。わたくしは時間稼ぎがしたい。……どうでしょう? 殿下と利害は一致していると思うのです」
「……いや、しかし……」
「殿下の目的が達成された際、速やかに婚約破棄してくださって構いません。傷物令嬢になれば、それを理由に働きに出ることもできます。わたくしは愛のない結婚はしたくないのです。ですから、わたくしと……」
そこで言葉を句切り、目を丸くしたままのアイスブルーの瞳をひたと見据える。
ヴィオラは息を大きく吸い込み、胸に手を当て自分を売り込んだ。
「偽装婚約しませんか!?」
「…………」
「……やはり、急にこんなことを言われても信用できませんよね。すみません、今のはすべて聞かなかったことにしてください」
しおらしく目を伏せる。王子のあまりにも不憫な事情に勢い余って申し出てしまったが、入学早々の不敬罪は勘弁願いたい。家族に知られたら泡を吹いて倒れかねない。
話をなかったことにして早々に立ち去ろう。大丈夫、走るのは得意だ。だてに領地で牧羊犬とともにヒツジを追いかけ回していない。
逃げの心構えをしていると、咳払いが聞こえてきた。
「俺にはもう他に頼る術がない。その提案を受け入れよう。本日から君は俺の婚約者であり、共犯者だ。よろしく頼むよ、婚約者殿」
「えっ、よろしいのですか!? ありがとうございます!」
ヴィオラが両手を組んで感謝を表すと、ああ、と頷きが返ってくる。
「ただ、婚約破棄すれば君に瑕疵がつくのは避けられない。だから、それ相応の報酬を払おう。君は見返りに何を望む?」
「……み、見返り……?」
限界まで首を傾げる。あ、ちょっと首がつりそう。少し戻そう。
ローレンスは不審げに眉を寄せながらも、わかりやすいように説明してくれる。
「まさか善意だけの申し出というわけではあるまい。王子の婚約者を演じるとなれば、それなりに気を遣う。この関係はあくまでビジネスだ。秘密を共有する以上、対価を求めるのは常識だろう。無償の取引というのは禍根が残るからな」
「なるほど……見返りに対価を。やっと理解しました。それが貴族の常識というならば、わたくしが求める対価は、ずばり王都のお菓子です!」
「なんだって?」
ローレンスだけではなく、従者のセドリックまで怪訝な顔になった。
驚かれるのは想定内だ。田舎者という自覚は十二分にある。ヴィオラはぽっと桃色に染めた頬に手を当てた。
「恥ずかしながら、わたくし王都に出てくるのは生まれて初めてなのです。我が子爵家の懐は年中寒く、これまで質素倹約の生活に身を置いてきました。王都には数多くのパティスリーがあるのでしょう? どれも宝石のように美しく、味も大変美味と聞き及んでおります。わたくし、王都中のお菓子を制覇するのが昔からの夢なのです!」
「……菓子ぐらいで大げさな」
「大げさなどではありません! いいですか。貧乏人にとって、美しいお菓子は夢と浪漫が詰まった宝石に等しい品なのですよ。叶わぬ夢だからこそ、憧れは増すのです。甘味に飢えたわたくしをどうかお救いください。王都のお菓子、それ以上に望むものなどありません」
砂糖は高級品。それを贅沢に使う王都のお菓子は贅沢品だ。
右手を握りしめ熱弁をふるうと、ローレンスは呆れたような視線を向ける。
「えらい熱量だな。それほどの価値があるとは俺には思えないが」
「何をおっしゃいます。王都のお菓子はひとつ取っても、地方のお菓子の何倍もするお値段だとか。わたくしには到底手が届きません。ですから、お茶会などで毎回お菓子を食べる機会があるのでしたら! わたくしは喜んで馳せ参じます!」
「…………。わかった。では、君をお茶会に招待するときは有名スイーツを用意しよう。それでいいか?」
なんて素敵なご褒美だろう。この人は神様か。違った、王子様だった。
ヴィオラは抱きつきたい衝動を抑え、顔を最大限近づけて嬉しさを表現する。
「ありがたき幸せ! 殿下、お茶会の日を指折り数えて待っていますね」
「近い近い! 少し離れろ……ッ。不敬だぞ」
顔の前を両手でガードされながら怒られる。ヴィオラは一瞬きょとんとした後、自分の所業に気づき、あわてて飛び退いた。
「はっ……申し訳ありません! つい興奮して、距離感を見誤ってしまいました。不徳の致すところです。次からはしっかり距離を取ってから近づきます。どうぞご容赦を」
「まったく……。君は直情径行型だったのか」
呆れと諦めが混じったような吐息に、乳母から「ですから、あれほど申し上げたではありませんか。お嬢様は行動する前に一度よく考えてからにしてくださいと……」という苦言が頭をよぎった。
完全にやってしまった。相手は王族だ。過去、不敬罪での死刑はあっただろうか。
顔面蒼白で震えていると、今度は哀れみの視線を向けられた。
「はあ、もういい。偽りの関係とはいえ、婚約者になるのだからな。あまり他人行儀な距離ではかえって怪しまれてしまう。俺も婚約者らしい距離に慣れようと思う。だが、すぐに距離を縮めすぎるのも外聞が悪い。少しずつ距離を詰めていく。いいか、少しずつだからな?」
「かしこまりました。殿下」
くどいほど忠告され、キリッとした表情で大きく頷く。
ローレンスは苦笑しながら立ち上がり、ヴィオラの髪に絡まっていた葉を一枚ずつ取り除いてくれた。婚約者というより、兄のような人だなと思った。
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