第36話 をくゆらせ、夜を越える
夜のスナック『しずく』は、客のいない静けさの中に、ほのかなジャズが流れていた。
照明は落とされ、カウンターにだけ柔らかな光が灯っている。 店の奥では、ママの淳子が片付けをしていたが、もう言葉は交わしていなかった。
誠は、そのカウンターにひとり座っていた。
グラスにはウイスキーのロック。 手には火を点けたタバコ。
白い煙が、ゆっくりと天井に向かって立ち昇る。
「……久しぶりだな、ここで煙草を吸うのも」
誰に言うでもなく、そう呟いてグラスを口に運んだ。 氷が当たる音が、小さく響く。
ウイスキーが喉を通る感覚に、少しだけ昔を思い出す。 あの頃、俺は毎晩のようにここにいた。 組の仕事を終えて、部下を連れて、何も考えずに酒を流し込んでいた。
タバコを灰皿に落とす。 そして、また一口。
(……明日だ)
鬼塚と、影山。
あの二人と、いよいよケリをつける。
どれだけ遠回りしたか。 どれだけ、拳を封じて生きてきたか。
「リク……お前があんな無茶をしなけりゃ、俺は……」
否。 それは違う。
あいつが動いたからこそ、俺も踏ん切りがついた。 リクは、若さだけで突っ込んだんじゃねぇ。
自分の中の何かを守るために、覚悟を決めたんだ。
「……強くなったよな、あいつ」
小さく笑って、煙を吐き出す。
この町に戻ってきた時、俺はもう何も守れないと思ってた。
あの時、全てを手放したと思ってたんだ。
組を抜けて、家族も……
「……美咲、沙織」
グラスの縁を指でなぞる。
嫁と娘の名前を、誰にも聞かれないように、声に出す。
(俺は、お前たちを守れなかった) (守るって、そう簡単なもんじゃねぇ)
この手には、血がついてる。
それを知ってて、それでもまた“戦う”と決めた。
もう、拳を振るう理由は、“正義”じゃねぇ。
“赦し”だ。
過去の俺がしでかした全てを、この手で精算するため。
そして……今、生きてる誰かの“未来”のために。
「……今さら、カッコつけすぎか」
灰皿に吸い殻を押しつけ、誠は少しだけ笑った。
静かな夜だった。 外では、時折車の音が通り過ぎるだけ。 この街も変わった。 けれど、まだ“灯り”はある。
それを消させねぇために、俺は明日、あの二人に会いに行く。
「どっちが生き残るかなんて、もうどうでもいい。 ……やることをやるだけだ」
そう呟いて、誠は最後の一口を流し込んだ。 氷が、グラスの底で小さく揺れた。
立ち上がり、ネクタイを少しだけ締め直す。
「お代、置いとくぞ」
奥にいたママの淳子が顔を出す。
「……無理、しないでね」
誠は背を向けたまま、手だけ軽く挙げた。
「心配すんな。俺は、しぶとい」
そして、店の扉を開けた。
夜風が、ネクタイの先を揺らす。
街の灯りは、遠くで滲んでいた。
煙草の匂いを残して、誠は夜の闇に溶けていった。
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