第35話 静かなる覚悟

病院の白い壁には、どこか人の感情を拒むような無機質な冷たさがあった。 春の午後、窓の外では桜が揺れているというのに、ここだけは季節の足音すら入り込めない。


長谷川誠は、無言で廊下を歩いていた。


看護師の説明は簡潔だった。 「肋骨にヒビが三本、打撲多数。幸い命に別状はありませんが、しばらく安静が必要です」


「見舞いの方は、短めにお願いします」


誠は無言で頷いた。


病室の前で立ち止まる。 ドアには『蓮見陸』の名前。 静かにノックして、ゆっくりと扉を開けた。


「……誠さん」


リクの声はかすれていた。


顔には青あざ、腕にはギプス、胸には包帯が巻かれていた。 動くだけで痛むはずなのに、彼は無理に笑おうとしていた。


「来てくれたんすね……」


誠は、ベッドの横に置かれた椅子に静かに腰を下ろした。 しばしの沈黙。


リクは、少し視線を逸らすようにして口を開いた。


「すみません。……勝手に動いて、こんなザマで」


「……無茶したな」


誠の声は低かったが、責める響きはなかった。


「街を守るってのは、そう簡単なもんじゃねぇ」


リクは、苦笑しながら答える。


「分かってたはずなんすけど……気づいたら、身体が動いてました」


「俺、あの時……あの拳を振るわないと、自分が何者かも分からなくなりそうで……」


リクの目が、ベッドの上で握った拳に落ちる。


「でも、あいつ……鬼塚ってヤツは、強すぎた」


「……影山ってやつも、ただ者じゃなかった」


その名前が出た瞬間、誠の瞳に微かな火が灯った。


「鬼塚と、影山……お前をここまでやったのは、あの二人か」


リクは頷いた。


「……俺なりに、覚悟決めて行ったつもりでした。でも、あの人らは……なんていうか、俺たちとは“土俵”が違った」


「ただの暴力じゃない。経験と、迷いのなさ……誠さん、俺、悔しいっす」


誠は、椅子の肘掛けに手を置き、ゆっくりと立ち上がった。


窓の外に目を向けた。 沈みかけた太陽が、病室のカーテン越しに淡く差し込んでいた。


「……お前がここまでにしてくれた分、もう、俺が動く番だな」


「誠さん……」


「街を守るってのは、拳の話じゃねぇ。 だが、あいつらみたいに“力で脅して”物事を動かそうってやつには、やっぱり同じ“覚悟”で向かわなきゃならねぇ時もある」


誠の背中が、リクの視界に入る。


その背中は、かつてリクがあこがれた、そして今も追い続けている“男の背中”そのものだった。


「お前は、もう十分やった。 あとは任せろ」


誠は、病室のドアノブに手をかけた。 だが、その手が止まった。


「……リク」


「はい」


「お前がやったこと、間違ってねぇ。 ……胸張れ」


そのまま、誠は病室を後にした。



---


夕暮れの街。 誠の足音が、アスファルトに静かに響く。


手には、携帯電話。 ディスプレイに並ぶ番号の一つを、迷いなく押す。


「……ああ、俺だ。 “そっちの二人”に、伝えとけ」


「“話がある”。 場所は――“あそこ”だ」


通話を切る。


背筋を伸ばし、スーツの裾を直す。 ネクタイは緩めない。


街の雑音が、遠ざかっていくように感じた。


(この拳は、もう振るわねぇって決めてた) (だが――守るためなら、話は別だ)


「鬼塚……影山……決着をつけようじゃねぇか」


誠の目が、静かに、しかし確かに燃えていた。


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