第29話 誇りを捨てずに、頭を下げる

午後の陽は傾きかけていた。 春先の光が赤く、街を斜めに染めていく。


誠は、人気のない裏通りを歩いていた。 舗装が甘く、車の通りもほとんどない古びた住宅街。


その一角、老朽化した二階建ての一軒家の前で、彼は立ち止まった。


門の塀に蔦が這い、郵便受けにはチラシがいくつか突っ込まれている。 だが、門柱には確かに――「三國(みくに)」という名前が、黒い金属で掲げられていた。


(……まだ、ここにいるんだな)


三國丈太郎。 かつて誠が所属していた組の、元若頭にして実質的な“親”だった男。


誠が組を抜けてから十年以上。 一度も連絡を取っていなかった。


「……長谷川誠です。ご無沙汰してます」


インターホンを押し、低く声をかける。


少し間を置いて、玄関の扉が静かに開いた。


出てきたのは、かつての親分――三國だった。


老いたな、と思った。 背は少し曲がり、髪はすっかり白くなっている。 だがその眼光は、変わっていなかった。


「……ほぉ。生きとったか」


それだけ言って、三國は誠を中へ招き入れた。



---


茶の間の空気は重たかった。


畳の上に座卓。壁には古い掛け軸と、昭和時代の任侠映画のポスター。 冷めかけた煎茶の香りだけが、静かに部屋に満ちている。


誠は正座し、三國の正面に座った。 背筋は伸びている。だが、目は伏せていた。


「……今日は、頭を下げに来ました」


「見りゃ分かる。お前がそんな顔して来るなんざ、俺にとっちゃ珍事だ」


三國は笑わなかった。 ただ、じっと誠を見つめている。


「話せ。何があった」


誠は、ゆっくりと口を開いた。


「……今、俺が暮らしてる町が、潰されかけてます。 表向きは再開発。けど中身は地上げ。 動いてるのは“ミヤシマ興産”。……佐伯雅仁が仕切ってる」


三國の目がわずかに細くなる。


「……あの小僧が、また出てきたか」


「奴らが裏で動かしてる。鬼塚仁と、影山鷹司も一緒に」


しばらく沈黙。 誠はその隙を逃さず、話を続けた。


「俺は、今回――暴力で止めるつもりはありません。 土地を、買い戻します。 金で、向こうの筋を止める。 そのために……資金が、必要です」


そして、深く頭を下げた。


畳に額がつくほどの、真っすぐな土下座だった。


「お願いします。力を貸してください。 ……どうしても、あの町を、守りてぇんです」


三國はしばらく黙っていた。


その沈黙は、時間にして一分もなかったかもしれない。 だが誠にとっては、何分にも思えた。


やがて――


「……お前が“土下座”なんざする日が来るとはな」


その声には、皮肉よりも“重み”があった。


「……誰に頼まれても動かねぇ俺だが。 お前がその姿見せるなら、話は別だ」


誠はゆっくり顔を上げた。


三國は立ち上がり、隣の部屋へ行く。 少しして戻ってきたとき、手には古びたノートと、分厚い封筒があった。


「昔の貸しがある奴らの名前と番号だ。いくつかはまだ使えるはずだ。 ……それと、少しだけど現金だ。 ウチの隠し口座もまだ生きとる。そこも使え」


誠は、言葉を失った。 その封筒を、両手で受け取る。


「……親父」


「“親父”なんて呼ばれたの、何年ぶりだろうな。 ……だが、今回だけは許す。誠。 お前は今、ようやく“戻ってきた”んだ」


誠の目に、静かに光が差した。


その光は、町を守るために集めた、最初の一灯だった。


その後も三國は、昔の仲間の名をいくつか挙げ、具体的な話をしてくれた。 「港の倉庫で不動産をやってる澤田、まだ動けるはずだ」 「西川の息子が今、司法書士になっとる。そいつ通せば書類は早い」


まるで、昨日のことのように記憶していた。


三國の目にはもう現場の鋭さはなかったかもしれない。 だが、背中に滲む“義理”と“誇り”は、昔と変わらずそこにあった。


誠は全てを胸に刻み、深く頭を下げた。


「……恩に着ます。必ず、この町を守ってみせます」


帰り道、夕焼けが赤く燃えていた。 誠の影は、どこまでも長く、真っ直ぐ伸びていた。

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