第26話 報せは、静かに火を灯す(前編)
朝。
長谷川誠は、自宅の小さなダイニングで、湯気の立つコーヒーカップをじっと見つめていた。
誰もいない部屋。
カーテンの隙間から差し込む淡い光だけが、
ここが今日も“生きている”ことを知らせてくれる。
スーツのジャケットは椅子の背に掛けたまま。
白いシャツの袖はまくり上げ、無精髭は少し伸びている。
何かを考えるでもなく、何も考えないでもなく――
ただ、コーヒーの香りの中に身を置いていた。
(……少しずつ、戻ってきてるな)
頭の中に浮かぶのは、先日訪れたスナック『しずく』の光景だった。
壊されていた店は、仲間の手で、少しずつ元の姿を取り戻している。
リクが、皿を洗っていた姿。
ママが、ふっくら炊いたごはんを運んでくる時の後ろ姿。
あの空気だけは、守らなければならないと思った。
誠は、口に運んだコーヒーを一口飲んだ。
苦みが舌に残る。
その時――
無造作に置いていたスマホが震えた。
着信画面に表示された名前は、「ウッシー」。
少しだけ間を置いてから、誠は通話ボタンを押す。
「……ああ」
『よぉ、悪いな朝っぱらから。寝てた?』
「……飲んでた」
『ふふん、朝からそれはキマってんな。
……いや、本題に入る。例の件、ある程度まとまった』
誠の目が静かに細まる。
『今から来れるか? 店の裏。少し時間、くれ』
「……わかった。向かう」
通話を切ると、誠はコーヒーを飲み干し、無言で立ち上がった。
シャツの袖を下ろし、ジャケットに腕を通す。
壁に立てかけていたサングラスを取り、顔にかけた。
玄関の扉を開けた瞬間、外の風が肌を撫でた。
春と夏の境目の、少し湿った風だった。
車に乗り込み、エンジンをかける。
カーステレオから流れ出す古いジャズが、誠の無言のドライブにやさしく寄り添う。
---
ウッシーの雑貨店は、商店街の裏手にある。
表向きは“海外雑貨とビンテージ品”を扱う小さな店舗。
だが、知る人ぞ知る――その奥は“情報屋”としての顔を持つ、裏の連絡所だった。
店に入ると、カウンター越しにウッシーが顔を出す。
今日はサングラスをかけておらず、珍しく真面目な顔をしていた。
「来たか。……奥、空けてある。裏に回れ」
誠は黙って頷き、店の横手の扉へ回る。
裏口から入ると、そこは“表の顔”とはまったく異なる空間だった。
壁一面に貼られた地図。
そこに赤いピンが打たれ、土地の所有者の名前や印刷された古い図面が並んでいる。
雑誌が詰め込まれた本棚の隙間に、
ノートパソコンとプリンタが静かに唸りをあげていた。
古い空気清浄機が、低く音を立てて動いている。
ウッシーはコーヒーのカップを片手に、書類の束をめくりながら言った。
「さて、報告といこうか。
ミヤシマ興産と、あの二人――鬼塚と影山。
お前が関わる以上、冗談抜きで“本物の地雷”だ。
だけど……全部、洗った」
誠は無言のまま椅子に腰を下ろした。
火が、静かに灯り始める。
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