第25話 この味を、覚えておく

夜風が少しだけぬるくなった路地を、二人の男が歩いていた。


ひとりは、長谷川誠。

もうひとりは、口元に少しだけ絆創膏を貼った、蓮見リク。


沈黙のまま歩く二人の前に、やがて一軒の店が見えてきた。

スナック『しずく』。


シャッターは半分ほど開いており、店の中からかすかに灯りが漏れていた。


「……片付け、少しは終わってるかもしれねぇけど」


「いや、俺も手伝いたいっす。正直……こういうの、初めてだけど」


誠は黙って頷いた。


二人が中に入ると、奥のカウンターにママ――淳子がいた。

雑巾片手に棚を拭いていたが、顔を上げるとわずかに驚いた表情を見せた。


「……あんたたち来たの?」


「少しでもと思ってな。まだ片付け、終わっちゃいねぇだろ」


誠の言葉に、リクもペコリと頭を下げる。


「俺……この店が壊されたって聞いた時、マジで悔しくて。

 何もできなかったから……手伝わせてください」


淳子はしばらく無言だったが、やがてふっと笑った。


「……変わったわね、リク。

 前は“皿すら洗いたくねぇ”って顔してたくせに」


「はは……マジでその通りっすね」


「まあ、いいわ。使える手は多い方が助かるし。

 その代わり、ちゃんと働いたら、少しだけ……ごはん、出してあげる」


「マジすか!? それ超うれしいっす!」


リクの目が光る。

誠は少しだけ笑みを浮かべた。


二人は棚のグラスを拭き直し、床の隅に残っていた破片を拾い、ソファの破れに応急処置を施した。

不器用ながらもリクの手は真剣だった。

汗をかきながら、時折「これでいいっすか?」と確認する姿に、淳子もどこか嬉しそうだった。


やがて、淳子が台所から顔を出した。


「そろそろ終わりでしょ。……ちょっとだけ、用意できたから」


カウンターの一角に、湯気の立つ皿が並び始めた。


炊きたてのごはん、

ふっくら焼かれたサバの味噌煮、

ホクホクの肉じゃが、

あつあつの味噌汁に、小皿の漬物と卵焼き。


どれも“店のまかない”とは思えないほど、丁寧に作られていた。


「うっわ……うっわ……!!」

リクが声を漏らす。「……めっちゃうまそう……!」


誠も席につき、黙って箸を取る。


リクは一口目のごはんを頬張ると、目を丸くして――


「うまっ!! え、これ……マジでうまいっすよ、ママさん……!」


「ふふ、アンタのその顔が見れたら、作った甲斐があるってもんよ」


「……これ、忘れられねぇかも……」


黙々と食べながら、リクがぼそっと呟いた。


しばらく、あたたかい沈黙が流れる。

料理の湯気と、箸の音と、小さな笑い声だけが満ちていた。


その中で、誠がぽつりと、言った。


「……この町を、お前に任せたい」


リクの箸が止まる。


「……えっ」


誠はリクを見ずに続ける。


「俺がずっと背負ってきたもんは……もう、お前らの時代に託した方がいい気がしてる。

 お前なら、街を見れる。拳もある、仲間もいる。……何より、覚悟ができてる」


リクは目を伏せて、箸を置いた。


「……誠さん。俺、まだまだっすよ。強さも、考え方も、ぜんぜん追いつけてない」


「追いつけなくていい。

 俺の背中は、見るもんじゃねぇ。超えるもんだ」


その言葉に、リクは顔を上げる。

少し照れくさそうに、だが、確かに力のある目だった。


「……はい。俺、この町、守ります。

 ママの料理が、ちゃんと残るような町にしてみせます」


「ふふ、アンタそれ、意外と名言じゃない」


淳子が笑った。

誠も、わずかに口元を緩めた。


その夜、二人は最後まで残って、皿を洗い、椅子を整え、灯りを消した。


店を出ると、夜風が少しだけ、優しく吹いた。


「……今度は、俺が背中を見せる番か」


リクはそう呟いて、誠の隣を歩き始めた。


その歩幅は、前より少しだけ、近かった。

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