第19話 背中の代わりに壊したもの

夜8時過ぎ。

スナック『しずく』は、いつものようにゆるやかに開いていた。


カウンターには馴染みの常連客が二人、

奥のボックス席では近所の商店街仲間が軽く飲んでいる。


ママの淳子は、髪をまとめて笑顔でグラスを拭いていた。

あの人――長谷川誠――がここに通い出してから、店はどこか落ち着いた雰囲気を取り戻しつつあった。


その時だった。

カラン、と控えめにドアが開く。


店内が一瞬静まる。


現れたのは、無骨な男。

レザージャケットの巨体――鬼塚 仁。


後ろから、黒いコートの細身の男が続く。

静かに歩いてくるその目は、まるで空気の温度を奪うかのようだった。影山 鷹司。


二人がカウンター前まで進む。


「いらっしゃ――」


淳子の声が、途中で止まった。


この空気、この圧――“ただの客”ではない。


影山が淡々と口を開く。


「こんばんは。突然ですみません。

 ただ……今日は少し、騒がしくなるかもしれません」


その瞬間、鬼塚がカウンターのグラス棚に拳を叩き込んだ。


バリィンッッ!!

ガラスが砕け散る。


常連客が悲鳴を上げ、ボックス席の客が慌てて逃げ出す。


「な、なにしてんのよッ――!」


淳子が叫ぶと同時に、鬼塚は後ろのテーブルを蹴り倒す。

空のボトルが床に転がり、ウイスキーの香りが空間に広がる。


影山は、騒ぐ客に向かって手をひらひらと振る。


「退避推奨ですよ、みなさん。

 巻き添えになっても責任は取りませんから」


カウンターの奥、淳子が震える手で警察に電話をかけようとする――

その瞬間、影山が一歩踏み出し、カウンター越しにその手首を軽く押さえた。


「やめてください。

 警察は、私たちが“いなくなった後”に呼んでもらえればいい」


その手の力はまったく強くないのに、

なぜか淳子は動けなかった。


鬼塚が冷蔵庫を蹴破り、壁の額縁を叩き落とす。


バキ、バキン――

店内が、確実に壊れていく。


影山がゆっくりと手を離す。


「我々は、“何もしていない”ことにしておきましょう。

 ただ、“誠の背中”が守ろうとしていたものが――

 こんなにも脆いってことだけ、示しに来ただけですから」


鬼塚が最後に一歩、カウンターに近づく。

無言のまま、ひとつだけ飾ってあったガラスのボトルを、

ゆっくりと手で落とす。


カシャン――という乾いた音。

それが、すべての終わりだった。


影山がくるりと背を向ける。


「じゃあ、ママさん。伝えておいてください。

 “あなたの背中”、ちょっと傾いてますよ、って」


二人は、何事もなかったように夜の街へと消えていった。


スナック『しずく』には、壊された家具と、

壊れなかった――でも確かに傷ついた“誇り”が残されていた。


そして――

この光景を、まだ“誠”は知らない。

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