第13話 片手で、足りる

倉庫の空気が、ひとつの呼吸で凍りついた。


向かい合うのは、地元最強と恐れられる暴走族の頭・蓮見リク。

そして、背中ひとつで語る元・極道、長谷川誠。


まだ、何も起きていない。

けれど――誰も、声を出せなかった。


二人の間には、わずか3メートルの距離。

その空間に、火薬のような張り詰めた気配が満ちている。


リクが足を少し開く。

腰が沈む。

その視線は、完全に誠を射抜いていた。


誠は、片手をポケットに入れたまま立っている。

もう片方の右手だけを、だらりと下げて。


顔は変わらない。

無精髭の向こうにある口元は、何も語らない。


視線だけが、真っすぐに――“見抜いていた”。


リクの奥にある怒り、焦り、迷い。

誠はそれらすべてを、何も言わずに受け止めていた。


倉庫の天井から垂れ下がった裸電球が、微かに揺れる。


その一瞬の光の揺らぎを合図に――

リクが、動いた。



---


一歩。

地を蹴ると同時に、鋭い踏み込み。


右のストレート。

誠の顎を狙った拳が、真っ直ぐに走る――


それを、誠の右手がわずかに持ち上がる。

指先で、軽く払うだけ。


拳は逸れ、空を切る。


リクは即座に体を捻る。

逆の左が誠のこめかみを狙う。

速度、角度、間違いなく最速の打ち下ろし――


しかしそれも、誠の掌が横から滑り込むように受け止めた。


まるで、柔らかい布が刃を包み込むように。


反撃は、ない。

ただ、“止められる”。


リクの身体が反転しながら、ローキック。

膝から腰、そしてバックスピン――


誠は足を一歩下げただけで、すべてを流す。


一発、また一発。

汗が飛び、床が鳴る。


しかし誠の動きは、一切“力”がこもっていない。


指先。

手のひら。

前腕。

時に肩。

全身の「無駄のない受け流し」が、ただ続いていく。


リクは歯を食いしばり、空気を切り裂く連打を放つ。


それでも。

誠は、片手だけで――全てを受け止めた。


沈黙。

まるで“空手の型”のような、鋭く美しい攻防。


打ち込み続けるリクの肩が、徐々に重くなっていく。

腕が痛み、息が乱れる。

視界が揺れる。


だが誠は――眉一つ動かさず、そこに立っている。


風のように。

壁のように。


そしてついに、リクの拳が最後の一発を振り切る――


が、その瞬間。

誠の右手が、音もなく前に出た。


拳を包むように、肩口にそっと触れた。


それだけで、リクの身体が止まる。

まるで、何かに“鎖された”ように。


肩が下がり、膝が落ちる。


床に、音が落ちる。

拳が開く。


息だけが、荒く響く。


誠は動かない。

右手を、ゆっくりと戻す。

左手は、まだポケットの中にある。


沈黙。

重力のような、圧倒的な静寂。


それを破る者はいなかった。


ただ一人の男が、片手だけで“力”を超えていた。

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