第9話 黙ってても、逃がさねぇ

夜の商店街に、乾いた音が響いた。


ガッシャーン!


雑貨屋の前に置かれていた棚が、派手に倒された音だった。

駆けつけた店主が見たのは、走り去る少年の背中。

バイクではない。まだ自転車に乗っているような、どこか幼さの残る姿。


その姿を――誠は角の路地から見ていた。


煙草を口にくわえたまま、手はポケット。

だが目だけが、獲物を捉えるように鋭く光っていた。


「……ひとりか」


小さく呟いて、煙草を道端に落とす。

足で火を消しながら、スーツの袖をまくった。


次の瞬間、誠は走り出した。


* * *


少年は逃げていた。

慌てて雑貨屋を荒らしたはいいが、仲間とはぐれた。

スマホは圏外。音楽は止まった。

そして――背後から、地響きのように迫る足音。


「はっ……? え……あいつ、走ってきてる!?」


角を曲がるたびに、振り返るたびに、距離が縮まる。

追ってくるのは、スーツの中年男――長谷川誠。

表情も変えず、ただ静かに、着実に迫ってくる。


「っち……!」


少年は裏路地へと駆け込んだ。

民家の塀を越え、細い路地を抜け、

最後の角を――曲がろうとした、その瞬間。


バッ!


横から伸びた腕が、首根っこを掴んだ。


「うわッ……!」


ドサッと音を立てて、少年が地面に倒れる。

誠は肩で息をしながら、少年の前に立っていた。


「……はぁ……はぁ……どこのガキか知らねぇが……」


誠はゆっくりと、右手を振り上げた。


「――“覚悟”ってもん、知ってるか?」


少年の瞳が大きく見開かれた。


ゴッ――!


拳が振り下ろされる――と思った、その寸前。


誠の拳は、少年の顔の寸前でピタリと止まった。


鼻先、ほんの数センチ。

その“風圧”だけで、少年の体がビクッと震えた。


「ひッ……!」


誠は拳を下ろし、顔を近づける。


「俺はな、殴ることに“重み”を知ってる。

ガキ一人に拳振るって、何が残る。

だから――殴らねぇ。

だがな、二度目はねぇぞ」


その低く、静かな声に――少年の震えが止まらなかった。


「名前は?」


「……ヤ、ヤマト……です」


「頭は?」


「リ、リクさん……蓮見 陸……!」


「溜まり場はどこだ?」


「か、川沿いの廃倉庫……元、材木屋の……!」


誠はゆっくり立ち上がる。

スーツの膝についた埃を、手で払いながら言った。


「このままじゃ、お前ら、ただの使い捨てだ。

ミヤシマにとってはな、暴走族なんて“ガキのオモチャ”だ」


「……」


「一度だけでいい。

この街がどうなってるか、ちゃんと見ろ」


誠は背を向けた。

振り返らず、ただ静かに歩き出す。


少年はその背中を、動けずに見送っていた。


* * *


スナック『しずく』に戻ると、淳子が言った。


「……やったの?」


「やってねぇよ。

ただ――ちょっとだけ“背中”見せてきた」


誠は、サングラスを机に置いた。


その目は、いつにも増して静かで、どこまでも真っ直ぐだった。

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