第6話 旧き名を呼ぶ時
スナック『しずく』に戻ると、店内の空気が少しだけ違っていた。
いつもより静かで、重い。
まるで、何かが入り込んだあとの残り香のように。
カウンターの上に、名刺が置かれていた。
「ミヤシマ興産……用地調整部、佐伯 雅仁」
指先が止まる。
目で追ったその名前が、時間を巻き戻す。
* * *
佐伯雅仁。
かつて、俺の直属の部下だった男だ。
出会ったのは、まだ佐伯が二十歳そこそこの頃。
組に入ったばかりで、ガリガリで、口数の少ない若造だった。
最初の頃は、何度もしくじっていた。
相手の目も見れない。声も小さい。
裏の世界では、一瞬の油断が命取りになる。
だが、それでも――こいつには、不思議な芯があった。
何度殴られても、倒れても、立ち上がる。
指示をすれば、誰よりも早く動く。
口より先に、体で覚えようとする姿勢は、まるで昔の俺を見ているようだった。
「長谷川さん。俺、強くなりたいんです。
強くなって……誰かを守れる男になりたい」
それが、あいつの口癖だった。
俺はこいつを気に入り、表には出さなかったが、
何度も仕事に連れて行った。
危ない橋を渡らせるときも、後ろから背中を見せてやった。
そして、ある日。
あいつは初めて、一人で交渉の場に立った。
相手は手ごわい。普通ならひるむ。
だが、佐伯は――まっすぐ相手を見据え、
震える声で、それでも“筋”を通した。
その夜、俺は酒を一緒に飲んだ。
あいつが初めて見せた笑顔は、まるで少年だった。
* * *
それから数年――
俺が組を抜け、裏の世界から足を洗ったあと。
佐伯がどんな道を歩いたのか、俺は知らない。
でも、きっと――
誠実さだけでは、生き残れない世界だったのだろう。
「……変わったな、雅仁」
名刺を指先でなぞる。
丁寧なフォント。真っすぐな文字列。
でもその奥にあるのは、あの頃とはまるで別人の影だった。
「誠。知り合いだったの?」
「……昔の部下だ。
俺が組にいた頃、ずっと一緒に動いてた」
「そう……どおりで、“目”が似てると思った」
「……あいつの目は、もう昔の目じゃない。
きっと俺の知ってる佐伯じゃねぇ」
淳子が静かにグラスを拭く。
「でもさ、あんたの背中をずっと見てたってことは――
その分、あんたを裏切ったときの痛みも、誰より強いってことじゃない?」
誠は何も言わなかった。
ただ煙草に火をつけて、細く煙を吐いた。
「……会うしかねぇな。
ちゃんと、顔を見て、確かめねぇと」
その言葉は、呟きのようだった。
けれど、そこには確かな決意があった。
かつての部下――そして今は、街を脅かす敵。
その男の名を、もう一度呼んだ夜だった。
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