第5話 火種、落ちる
夜は静かに深まっていた。
スナック『しずく』のカウンターでは、淳子が一人、グラスを拭いていた。
テレビでは深夜ドラマが流れている。物語の中では誰かが誰かを裏切っていたが、そんな話はどうでもよかった。
誠は今夜、外に出ている。
「ちょっと調べもんがある」
そう言って出ていった背中に、どこか昔の匂いを感じた。
戻ってきたら聞こうか、いや、やめておこうか。
そんなことを考えていた。
――カラン。
ドアのベルが静かに鳴った。
こんな時間に、客ではない。すぐに察した。
現れたのは、スーツ姿の男が二人。
一人は30代後半、黒髪をきっちり撫でつけ、ネクタイもピシッと締めている。
もう一人は、その横に立つチンピラ風の若い男。
安っぽいスーツに金髪まじりの茶髪。靴の踵を踏み潰し、口元は常に笑っている。
「こんばんは。遅い時間に恐れ入ります」
黒髪の男が先に口を開いた。
声は柔らかい。だが、どこか不自然な“丁寧さ”があった。
「誰? うち、もう閉店だけど」
淳子は手を止め、冷たく言った。
二人を睨むように見つめながらも、その視線には動揺がない。
「少しだけ、お話を。
我々、ミヤシマ興産という会社で、再開発の用地調整を担当しておりまして」
男は名刺を差し出す。
受け取らずに見下ろすと、「用地調整部 佐伯 雅仁」とあった。
「夜中に“ご丁寧”なことね」
「申し訳ありません。皆様お忙しいかと思いまして、こうした時間のほうが……」
「昼間に来れば、誠がいたのにね」
その名前に、佐伯の眉がわずかに動いた。
だが、すぐに微笑みを取り戻す。
「長谷川様、ですね。お噂は……伺っております」
後ろでチンピラ男がくくっと笑った。
「オッサン、あれでしょ?昔ちょっと“そっち系”だったって」
「口を慎め」
佐伯がピシャリと小声で叱る。
それでも、チンピラはにやにやと笑いを止めなかった。
「……この建物も古いですから、地震なんかあったら危ないっすよねぇ。
俺ならさっさと出ますけど。
てか、ここ取り壊したらパーキングにしたほうがよくないすか?」
「出て行けってこと?」
「まさか。私どもはただ、“円滑な進行”を希望しているだけです。
どうか前向きにご検討いただけますと」
佐伯は目を細めて笑う。
その笑みがまったく目に届いていないことに、淳子はすぐ気づいた。
「“再開発”って言えば、何でも通ると思ってるでしょ。
でもね、この街で一番古いのは、建物じゃなくて人の縁なのよ」
「承知しております。
ですが――時代の流れというものも、また現実でして」
「時代がどう流れようと、
無理やり押し流されたら、そこに残るのは“恨み”だけよ」
佐伯が一瞬、言葉を失った。
その隙にチンピラが前に出ようとしたが、佐伯が手で制した。
「申し訳ありません。本日はご挨拶のみのつもりでして。
次回、もう少し具体的なお話を持参させていただきます」
「次回は断るわ。あんたらの顔はもう見たくない」
「それは残念です」
佐伯は深く頭を下げた。
チンピラも渋々従って、笑みを浮かべたままドアへ向かう。
「じゃあ、ママさん。あんま無理すんなよ?
この街、変わるっすから」
――カラン。
ドアが閉まっても、店の空気はしばらく凍ったままだった。
淳子は名刺を睨むように見つめる。
「……誠。
あんたの出番が、そろそろ来たみたいだよ」
そして一人、ゆっくりと煙草に火をつけた。
その煙が、火種のように立ち上る。
まだ誰も気づいていない――この夜が、静かに燃え始めたことに。
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