第3話 あの夜に置いてきたもの

人は、何かを失って初めて気づく。

自分がどれだけ傲慢だったか、

何にすがって生きていたのか。

俺にとって、それは――あの夜だった。


* * *


六年前の冬。

風が妙にぬるくて、雪が降る気配もなかった。


組の抗争が激化していた頃だ。

相手のシマに手を出したことで、火種はいつ燃えてもおかしくなかった。


「誠さん、奥さんと娘さんは避難させといたほうが……」


若い衆が気を利かせて言ってくれた。

俺は「大丈夫だ」と答えた。

本当に、大丈夫だと思っていた。


俺の家には、誰も手を出さない。

“長谷川誠”という看板は、それだけの意味を持っていた。


それは――ただの思い上がりだった。


* * *


夜中、一本の電話が鳴った。


受話器越しに聞こえたのは、

銃声と、ガラスが割れる音と、

かすれた声で娘が叫ぶ、「パパ、こわいよ……」という言葉。


その後のことは、あまり覚えていない。


気がつけば、血の匂いの中に立っていた。

家の中はめちゃくちゃで、壁には銃痕。

その真ん中で、嫁が――そして、小さな娘が、倒れていた。


娘の手には、俺が昔あげたサングラスが握られていた。

「これかけたら、パパみたいに強くなれるんだよね?」と笑っていた顔が脳裏に浮かんで、

俺は、その場に崩れ落ちた。


守れなかった。

何もかも、守れなかった。


その夜を境に、俺は組を抜けた。


暴力じゃ、何も守れねぇ。

拳を振るっても、命は戻らねぇ。

俺が持ってた“強さ”なんて、ただの自己満足だったんだ。


* * *


今の俺には、もう家族も、肩書きもない。

あるのは、スーツと、サングラスと、

この背中に残った後悔だけだ。


「……背中で語る、ってやつだよな、あいつら……」


ポツリと呟いた声は、誰に届くわけでもない。

ただ雨音に溶けていった。


でも、あの日守れなかったものを、

今、この街で誰かが同じ目に遭うのなら――

俺はもう一度だけ、立たなきゃいけねぇ。


たとえ、あの頃の俺に戻ることになったとしても。

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