第2話 動き出す足音

雨が止んだのは、深夜二時過ぎだった。

ぽつり、ぽつりと残った雫が看板から滴る音が、やけに耳につく。


俺はカウンターの中に立ち、空いたグラスを片付けていた。

ガラス越しに見える街は静かで、どこか空虚だ。まるで、明日から地図から消えることを悟ってるような顔をしている。


「誠、あんた何も言わないけど……怒ってるでしょ?」


カウンターの向こう、スナック『しずく』のママ・淳子が煙草に火をつけながらこっちを見ている。

この女は、人の顔色を読むのが上手い。昔からそうだった。


「怒ってねぇよ」


そう答えながらも、手の動きが止まっていた。

あの話を聞いてから、ずっと頭の奥がじわじわと熱を持っている。


「全部で六軒、うち含めて。再開発だかなんだかで、まとめて出ていけってさ」

「立ち退き料は?」

「一応出すってさ。でも……足りないわよ。ここの想い出には」


口調は軽いが、目が笑ってない。

この場所は、淳子にとってただの店じゃない。

いろんな人生が交差して、泣いたり笑ったりした“街の居場所”だ。


「“ミヤシマ興産”ってところが回してるらしいわ。聞いたことある?」


聞いたことはある。

耳ざわりのいい企業名の裏に、あまりにも馴染み深い連中の顔がちらついた。

裏から手を伸ばしてくる奴らは、表じゃスーツを着て笑ってる。


「……面倒だな」


「でも、黙ってたら全部壊される。あんたもそれは嫌でしょ?」


俺は返事をしなかった。

正直、どうしたらいいのかもわからなかった。

けど、心のどこかが――また少しだけ、熱くなっているのを感じていた。


「誠さん……」


ふと、奥の席から声がした。

古びたジャケットに身を包んだ爺さんが、一人グラスを持ち上げている。

佐竹さん。この店の古株常連で、年金とパチンコで細々と生きてる、気のいい爺さんだ。


「俺ァよ、ここに通って、もう何年だ……淳子ちゃんの涙なんて、見たことねぇよ」


それは褒め言葉のつもりだろう。だが、俺の中で何かがカチリと音を立てた。

この場所を、こんなふうにして、壊させてたまるか。


「背中で語るってのは、あんたの十八番だったでしょ?」


淳子が笑った。

懐かしい言葉に、煙草の煙が苦く喉に残った。


「……昔のことは忘れた」


そう言ってグラスを拭いた。

でも、口の中に残った味は、どうにも苦かった。


俺の中の何かが、また動き出す気配だった。

背中は語らない。ただ、もう一度だけ立ち上がる――

その時が来たのかもしれない。

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