第27話
元より色の明暗程度の判別しか出来ない私ですが、その絵は、色もはちゃめちゃで、ペンキをそのまま、バケツからぶちまけたのではないかと疑うほど、線も形もあったものではなく、一見すると、これは本当に売れるのかしらと首を傾げたくなりますが、何故か惹き込まれる。この絵を見て、一日、好きなことをして時間を潰していても、何故か脳裡には、この絵が顔を出しているような、インパクトとでも言えばよいのか、兎にも角にも、キャンバスをそのまま、視界に張り付けられたような衝撃でした。
作者が手ずから、これは聖書の一節を題材にして、などと口にするのは興醒めも良いところで、そこは有名画家の坂内もそれを十分に理解していますから、キャンバスに目を奪われる私を余所に、散らかった画材の片付けに取り掛かって、何か私に声を掛けたと思うのですが、私はその一枚に集中していましたので、その返事の内容は愚か、自分自身が返事をしたのかすら、記憶が曖昧です。
余りにも私が熱心なもので、坂内は、私に作品を明け渡そうと画策していましたが、私はそのような心積もりでアトリエに侵入したのではないし、何より、私のような浅学な人間に譲渡することは、作品が不幸な気がしましたのでお断りをして、その日は坂内の家を後にしました。
「あの絵が世間様には、希望が託された絵に見えるらしい。俺の絵なんか、誰も理解出来ねえんだ。女房もそうだ、陰惨な気持ちで描いたものほど、明るい絵だと言って、反対に明るく、穏やかな気持ちで描いたものを見ると、早く休んだ方がいいと決めつけて、聞きやしねえ。創作者っていうのは、孤独だねえ。お前も、分からんのだろう。お前には、あれがどう見えた?」
「跳梁跋扈」
「わがまま放題ってことか?」
「私の心のうちの、余りに醜い部分を暴かれるような、見ているだけで、恐ろしくすらある。あの絵が、今も、私を見つめている気分で、どうにもそわそわしてしまって、でも、心地良く、……」
「良い、良い。概ね正解だろう。俺はあれを、遺書のつもりで描いたんだ。跳梁跋扈だか、横行闊歩だか、なんでも良いが、お前は、鋭い観察眼がある」
初めて私は、絵画の読解に正解したようで、坂内は満足して私を多いに褒め、今度は私の似顔絵を描いてやるなどと調子のいいことを言っていましたが、酔っぱらいの戯言ですから数か月経った今でもその件について言及されることはなく、きっと、坂内も覚えていないのでしょう。
私がこっそりと、坂内の愛好家になったように、どうやら坂内も私の小説を読んでいるようで、新刊が発表されると、あれは何だ、これはどういう意味だと解説を求めてくるので、私も懇切丁寧に返答をするのですが、そのときばかりは坂内も正直に頭を下げるので、それが可笑しく、その質問の仕方も責め立てるようなものではないので悪い気はせず、快く受けていました。
「俺は、現代国語の時間が一等嫌いだったんだ。本なんか、今までは画集か、漫画ばかりを読んでいて、こんな長いものを読み切った試しがない」
と笑うので、ああ、今回こそ読まないかもしれない、と覚悟しますが、大抵一月もあれば、一度目の読了が終わり、酒の勢いも相まって弾丸のような疾走感の感想を投げつけられ、時々批判があるとしても、私はそれすらも嬉しく、甘んじて咀嚼し嚥下することに決めていました。
そんなわけで、私と坂内は、創作者としても上手くやっていたのですが、そんな坂内にも悪癖というものがありまして、それが探偵気分の詮索なのですが、どうやらこれは、坂内曰く画家の宿命らしく、たった一枚の絵画に全てを落とし込むには全能とも呼べる理解が必要不可欠と言い張って、例えば店の隣に座った老紳士を小一時間はじっと見詰め、立ち振る舞いや言葉遣い、指の跡から既婚者か否かまでを推理し、挙句の果てには口調から出身地にすらあたりをつけて、では、あの男はこんな人間に違いないと決めつけ、もっと悪い時は占い師にでもなったつもりか、当人に近付き自分の推理を恥も外聞もなく大っぴらに披露することすらありました。
勿論私も、その餌食になった経験がありますが、得意の嘘が功を奏して、はみかみ、軽く首を傾げて聞こえなかった振りをして、白痴の振りなどして誤魔化してきました。すると、存外物分かりが良く、早々にそれ以上の追及を諦めてくれたようで、彼の言動に振り回されることはなくなりました。
初夏でした。私の部屋は、居間にひとつ大きな窓がこさえてあるだけで、それ以外の部屋は全く、日の光というものと無縁でしたので、深夜から早朝にかけて酷く冷え込み、
珍しく坂内の姿が見えないので、ひとり、すっかり馴染んだ特等席に座り、身体が火照るまで酒を飲み、意識がしっかりしている内に店を出たのですが、空腹に酒を流し込んでしまったものですから、胸やけのような吐き気がこみあげて来て、こんな状態では電車などには乗る事はできませんので、歩いて帰る事にしました。
吉祥寺という町は、駅前ばかりが栄えているので、それこそ店を出てしばらくのうちは夜の街の喧噪で目を焼かれるような感覚に襲われるのですけれど、暫らく步くうちに街燈もなくなってしまい、深夜では自然に生ける動物なども寝静まっていますので、住宅街の沈静に響く音と言えば私の足音と、近頃私を悩ませる咳くらいでした。もしや、酸素を取り込むよりも多く、咳をしているのではないかと思えるほど、繰り返し、繰り返し咳をしていると、どうしても酔いより、寂しさが勝って、帰ったところで何があるわけでもないのに、早く帰らなければと気が急いて、飛び込むように家に帰りました。
夜が明けて、さて、原稿でも進めようと、眼前に用紙を広げて、せき込みながらやっとの思いで綴っていると、突然喉が焼けるように痛み、口を覆った手のひらに霧吹きを使ったような水気を感じ、目をやると、鮮血でした。
私は、定期的な通院をしていましたけれど、それは専ら精神的なそれのためでしたから、身体の不調を診てもらうことは無かったために、自分の体が、原因不明の病に侵されている自覚が全く欠けていて、体外に不調が生じるまで気が付く事が出来ませんでした。
しかし、たった一度の偶然という可能性もありますし、なにより、あの日は酒を飲んだ翌日でしたので、日々の飲酒による不摂生が祟ったのだと思うことにして、暫らくは控えて執筆に励みましたが、一向に咳が改善する様子がなく、あまりにもそれが酷いものですから、桜庭は当然の様に顔を合わせる度に診察の催促をして、童辺などは、今にも泣きだしそうな、くしゃくしゃの顔で懇願してくるので、致し方なく近場の、古びた病院に出向いたところ、あっさりと病名をつけられて、適当な薬を処方され帰されました。
適量通り、薬を飲んでも変わらない病状に、私も真面目に取り組むのが馬鹿らしく感じてしまって、何より、長く生きていくつもりもないのですから、決して安くもない診察料と、薬代を支払うよりも、この身が擦り切れるまで働いてしまう方が幾分か素敵に感じて、初めの数か月は真面目に通っていたのですが、それも止めてしまいました。
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