第26話

 中央線に乗って、吉祥寺駅の一軒の、寂れた居酒屋が私のお気に入りでした。座敷とカウンターに分かれているのですが、通い詰めるうちに、一番端の、店全体を見渡すことの出来る一角が、私の特等席のような扱いになって、暖簾を潜って顔を出すと、ああ、空いてるよ、なんて声を掛けられ気恥ずかしい思いをすることも多く、然し居心地の良さは格別ですから、今更別の馴染みを見付けることも面倒に感じられて、店主に従って席につくのです。

「一緒に飲もう」

 やがて、自分同様常連という括りにいる男と顔見知りになりました。男は、坂内春樹といって、普段は大勢で座敷を占領し、酒をかっくらって店主を苦笑させ、時には財布すら出せない有様で、支払いは後日でよろしいなどと温情をかけられている様を数回目撃していました。大阪から上京してきて、画家として大成し吉祥寺に立派な家を構え、一室をアトリエにして絵を描いているのだそうで、近頃は酒に潰れながらでないと上手く描けないのだと嘆き、逃避のためにこの店に通っているのだそうです。

「創造主とは、苦しいね。日々、早く仕上げろと急かされて、あんなに責められたら、描けるものも描けないさ。あんた、作家だろう? 歪だねえ、今にも死んでしまいそうだ。隠しきれてないよ、死相とでも言うのかな、気が付いたら、ふっと消えて死んでいそうなやつの顔だ」

溌剌はつらつとしていたら、書けないのです。作家というものはね、いつでも、死を視ていないと、良い小説が書けないのですよ」

「難儀だねえ、死は、救いにはならんよ」

「貴方にとっての、救いとは?」

「これだね」

 そう笑って、坂内はグラス一杯のウイスキーを飲み干し、姉さん、もう一杯! と叫び、食べ切れもしないのに、次々とつまみを頼み一口ずつ口に運び、酒で満たされた腹を撫でて会計をするのが、彼の飲み方のようでした。私は酒を飲んでしまうと、軽食すら胃に入れられない性質ですし、他人の皿に箸を突っ込むような下品を働くことは致しませんから、勿体無いとは思いつつもなにもせず黙認していました。

 私と坂内の会合は不定期に、それも約束などを取り付けることはなく、店に入り、互いに一人で飲んでいたら。という雑な具合に開催されるようになりました。

 はじめての同業者の友人。酒の手伝いもあって、浮かれてしまったものですから全く警戒などはせず、それどころか軽口を叩ける相手とすら認識し、坂内も同じように私を扱っていたので、気の置けない親友のような間柄に変化するまで、そう時間はかかりませんでした。

「たった一枚の画で、俺のすべてを知った気になられたら、たまらないよなあ。世間様は、俺のような絵を描くやつは、鬱病に違いないと決めつけちまうんだ」

 私たちの会合は、酒の肴に仕事についての悪口を持ち寄って、そこそこの酩酊状態で切り上げてすっきりと晴れた心持ちで仕事に取り掛かるのが主流になっていました。坂内曰く、毒抜きと言うようで、こうでもしなければ、腹の底に鬱憤が溜まってしまい、創るものが駄作に見えてならず、思うように筆が進まないからこその行為だと主張するのですが、私にはかえって毒のようで、うんうんと、相槌と首肯に徹し、酒を注いで彼の毒抜きに付き合っていました。吐き出さず、彼の悪口を吸収し、気分を落ち込ませるほうが、余程捗ったのです。

 一度、坂内のアトリエに招かれたことがあります。妻子があることも、ここで初めて知ったのですが、どうやら妻の方は坂内の酒癖に厭きゝしているようで、「友人の皇桜痴だ」と紹介されたのですが、坂内と私に一度視線を向けて、はあ、あの酒場の。と短く呟くと、さっさとその場を後にしてしまいました。あの時の、まるで、罪人を見るような、冷ややかな視線は、今すぐにでも逃げ出してしまいたいとすら思えて、あれが、客人を追い出すための技なのだとしたら、彼女は賢女でしょう。

 坂内の自宅は、アトリエを持っていることもあってか、東京の一角に家を構えているというのに矢鱈と広く、いくつか部屋を持て余しているようで、何故必要もない部屋を増やしてまで、広い家に住まう必要があるのあか、純粋な疑問を持ち、額面通りに聞いたところ、

「有名人っていうのは、見栄を張らなきゃいけないんだ。大きな家を持って、裕福を見せびらかすと、実際と齟齬そごがあっても、アイツは偉いんだと信じられる。プラシーボ効果ってやつかねえ」

 そう、大真面目な顔をして言うので、そんなものかとその場では納得したのですが、実際彼は、鬱病患者と揶揄され、後ろ指をさされていると良く愚痴を言っていますし、今思えば、その仮説は矛盾している。私の実家も、無闇矢鱈と広く、部屋も趣味の悪い洋風と、和風が混在した内装で、掘り炬燵の真上に、豪華絢爛なシャンデリアがぶら下がっているといった具合の、権威の誇示をそのまま絵にしたような成金根性丸出しの家でしたので、もしや、あれも坂内と同じ思惑で建てたのかと思えと、背筋が凍る思いでした。

 ああ、いやだ。私はあの、三鷹の小さな部屋で、居間と書斎、寝室さえあれば、それで良いのだ。そう思って、気の抜けた返事をしたのですが、お前もあのような汚い部屋では無く、真面な部屋を借りるなり、買うなりするべきだ、などと怒られてしまって、閉口するばかりでした。

 画家の仕事部屋というものを見た経験がありませんでしたから、彼の誘いに単純な興味本位で快諾したのですが、扉を同時に鼻腔をくすぐった画材の香と、眼前に映る油絵に息を呑みました。

 今まで、散々芸術作品に触れてきましたが、私にはとんと、絵画の才能がないようで、暗い彩度のものは暗く、反対に、明るく彩られていれば賑やかなものだと印象付けて終わってしまい、美術館などで、学芸員に長々と時代背景やら、ひとつひとつの意味を指さし教授されたとしても、なるほど、とも思えず、鹿威しのように頷きながら、その日の夕飯に思いを馳せるなどという不敬を働いて、さして勉強する気も起きずここまで過ごしてきたのですが、月並みな表現にはなりますが、坂内の作品は、今まで見た度の絵画よりも美しく見えました。

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