第24話
ある晩、童辺がみっともなく泣き腫らしたかんばせを晒して、一晩置いてくださいと訪ねてきました。夜は唯一の私の憩いの時間と化していたので、今すぐに帰ってくれと懇願すらしたく、ぴしゃりと扉を閉めたくすらあったのですが、声を殺して涙を流す様が余りにも不憫に映ったので仕方なく寝室を貸すことにしました。理由を聞くことは、しませんでした。親身に話を聞き説法を説くことを童辺は求めていなかったからです。
日が昇ると、何事もなかったかのように居間に顔を出しましたが、その目は酷く腫れていました。脱水に気をつけなさいと静かに告げて朝食を出すと、褒美を受けた犬のように喜び、いよいよ彼の信仰は、灼熱を孕んで私に向けられました。
いよいよ、生活に彩りがなくなっていました。私はよほど前から、生きていくことはどうしようもない重労働で、地獄の折檻よりも厳しい罰であると考えていましたが、たった一人の信者が浮き彫りになったこと、それも私の生活に侵食しようとしているのですから、私に慰安も休息もなく、残された道は機械のように書き続け、電源が切れたのその瞬間の、死、ひとつのみでした。
「人生は地獄よりも地獄的という言葉がありますが、地獄がどのような場所かなど、空想するより他ありませんから、あれは生きることへの怠慢に感じます」
「地獄がどのような場所であっても、
生きていたら、その先を考えなければいけません。何もわからない、先の見えない明日を見据えなければ、なりません。そんな懲罰受ける現世のほうが、何よりも恐ろしいではありませんか。生きていくこと。泥水を啜って、地を這い蹲って、喘ぎながらもがくことこそが美学だと考える童辺とは、とんと死生観の意見が一致しませんでした。的外れなことをつぶやき、其の度私の修正を受けては、「なるほど、貴方がそう言うのなら、そうなのか」と莫迦の一つ覚えのように自身の培ってきた思想を放棄するのですから、救えない。
他者のたったひとこと。それで変わってしまう意見などに、なんの価値が? 無知は、罪である。最も凶悪な罪悪は、純粋だ。
童辺は、私との討論を大層気に入ったようで、暇があれば、つまらない議題で何時間も潰し、毎度毎度、自分を見失っていきました。これでは、洗脳と変わらない。いつか、私は悪しき者として、鉄槌を受けるでしょう。
「童辺さんは、このところ毎日ですか。先生のところに来るのは。困りましたね、仕事に支障が出るでしょう。先生も、断ればいいのに、……」
「はあ、いいや、そうですね。毎日々良くもこんな寂しい部屋に浸れるものだ。しかし、信頼を置く師からの拒否というものは、心に大きな傷を残すでしょう? わたしは、彼にそのような心配事を与えるつもりは、ないのですよ。ただ、いや、どうにも……」
また、桜庭も訪問者の一人でした。当初は、原稿の確認のために来訪する桜庭と鉢合わせることも多かったのですけれど、居心地の悪さを感じたのか、予定の入っている日には、桜庭が帰宅した頃に顔を出すようになっていました。それも、その筈でしょう。桜庭が居れば、私は彼につきっきりで談笑をしつつ、片手間に仕事の話をして、「茶でも飲んで待っていてください」と童辺を放ってしまって、討論どころではないのですから。
桜庭は、良く私に構うようになりました。眠れない日が続いているとどこからともなく察知すると、簡単な安眠道具のようなものを玄関先に掛け、それで足りんと分かれば酒の差し入れを持ってきました。然し、それもあくまで週に一度程度の訪問の、ごく少ない機会でしたから、彼のエゴイズムのようなものではなく、純粋な私への労りであると分かっていたので、穿った目で見ることもせず、有難く受け取っていました。鋼だと思っていた私の心の鎧は、実のところ、氷のように脆いものだったようで、もう既に、桜庭相手には溶け切っているのかもしれない、などと空想すらしました。
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