第23話

 覚えてしまった酒を手放すことも出来ず、夜が更けると、焼酎を浴びる程飲み、薬に荒らされた胃をさらに悪くして、医者の言う「普通の生活」はいよいよ送れなくなりました。眼の前に、目を見張るほどの御馳走を差し出され、さあどうぞ、お腹が空いたでしょう、などと強制されると、もう駄目で、胃から酸が上がってきて、喉を焼きながら必死に嘔吐し、そのうち、血までをも吐き出すようになりました。

 若い作家は、本名を名乗りませんでした。雅号の童辺だけを教え、ひとつ書き上げる度に私に提出をし、批評に反論もせずに帰る。ごく一般的な、ありふれた学生でした。純粋な男で、私の道化を疑うこともなく、全て信じ、時には私を小馬鹿にしましたが、それすらも私の思惑通りでした。あれほど、無垢な心を持ったまま成長した人間は、他にいません。今思えば、彼の押し掛け女房のような言動は、純粋ゆえの愚行だったと理解出来ます。

「酒は、いけません。薬も飲んでいるのに」

「酒は百薬の長ですよ。それに、これがないと、眠れない。薬は、たいして効果がないのです」

 これは、自業自得なのですけれど、あの事件のせいで、医者は私に、強い睡眠薬を処方することを躊躇しているようで、渡されるデエビゴなどでは、到底足りないというのに、何度訴えても変わりませんでした。

「それでも、お酒はいけません。中毒になったら困るのは、皇さんでしょう」

 ああ、この子は、早く諦めてくれないかな。なんて、お節介のお説教を、くどくどと紡がれるたびに考えているのですが、私の身を案じていると分かっているものですから、強く出ることもできず、彼が求めている返事は何かしら、とそのたびに思考を巡らせて、機嫌を取るのです。

 「来年の春は、もう少し暖かいといいですねえ」

 童辺は、私を神聖視しているようでした。美しく、高潔な、神の如き純潔を保った人間と勘違いして、私をその偶像に当て嵌め、飛び出した余計な部分を切り落とそうと奮闘しているように見えましたが、私にも自己主張の権利くらいはある筈ですから、頑として譲らないことも多く、そのたびに失望され、呆れた様子で溜息を吐かれていました。

 私は学校や、近所に住まう大人からは、よくかわいがられていました。同年代からは、大人びていると慕われ、大人たちからは、年相応のおませだと思われ、最終的には、桜痴には底知れぬ才能があると信じられることが常でした。私の町は、町と呼ぶのもはばかられるほど小さな町でしたので、ひとりがそう吹聴すれば、修正の隙もなく簡単に広まり、簡単に剝がせない値札を張られてしまう典型的な田舎でした。幸い、悪い噂ではないので、私は特に修正することもなく、皆の持つイメージ通りに自分を偽りました。いつどこで、誰が監視しているかも分からないと、いつでも気を張り、乗客の居ない早朝の電車の中でさえも、もしかして窓の外から、何かが見ているのでは、あるいは、カメラのようなものが隠されているのではないかと怯え、背筋を伸ばして、小さく笑みを浮かべていました。

 たった、それだけのことで、少しの失敗はかわいげの範疇で収まり、しかし私は酷く自罰的に受け止めて自分を叱咤するので、余計に周囲からの期待と評価が上がり、またしてもその幻想の自分の背中を追い掛ける。その繰り返しで、いつの間にか、一部の人間のなかでは、私が神のように尊く、私が白といえば白であると信じ込み、時には自らの思想すら矯正する有様で、まるで狂信者のようでした。

 読書を習慣づけられていたので、来る日も来る日も家の蔵書を抱えて、静かに本の世界に浸っている私を、多くの大人は持て囃し、説教の口実に私を使うこともままありました。

「桜痴を見習いなさい」

 という一言。たったそれだけの一言を聞くだけで、気分が沈みました。大人は、気が付いていないのです。子供の嫉妬心とはすさまじく、狂暴であり、いつ私に牙が向くか分かりませんから、私は叱られた子供にどのように対応すべきか、いつも悩んでいました。気にするなと慰めるのでは、足りない。鼓舞したところで、上から目線のようで、反感を買ってしまう。居心地の悪い思いで、私に白羽の矢が立たないように立ち回らなくてはならないというのに、その人任せの説教は年を重ねるごとに酷くなり、私本人に直接苦情が届くことすらありました。

 私自身、他人に語られるほどできた男ではありませんでした。強迫観念による道化が外聞良く取り繕ってくれたにすぎないのです。どうにも、勉強が身に入らず、ぼんやりと外を眺めて数時間を潰す日も少なくなく、それすらも天才の、数回に一度あるかないかの休息と噂されてしまって逃げる隙もなく、まさに針の筵でした。

 読者にも、時たまその傾向を持つ者がいるようですが、所詮は活字の上での付き合いですから、さして気にすることも、自身の体裁を守らなければという、脅迫じみた感情に呑まれる必要もありませんでしたから、伸び伸びと、羽を伸ばして生活を謳歌してきたつもりでした。

 しかし、突然現れた、信仰者。

 私は、再び、教祖にならなくてはなりませんでした。童辺という男にとって、私こそが聖典だったのです。ですから、私はそれに従い、彼が求める皇桜痴であろうと、再び奔走しました。

 それまで、演じることは私にとって何の苦でもなかったというのに、少しずつ、花瓣を散らしていました。

 どうにも息苦しい。

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