第21話
酒。あれは、とてもよいものです。
睡眠薬など、頼る必要もなく、気分は高揚して陽気になり、気が付けば日が昇っている。時間を忘れられるという観点で見れば、あれほど良いものはありません。酒は百薬の長とは、良く言ったものです。世論では、酒は毒物であるなどといううわさが出回っているようですが、あれは、真っ当に行き、幸福を、当然のように享受し、感謝を忘れ受け入れてきた、陽の光のもとに生まれた人の世迷言に過ぎません。私のような日陰者。陽光を浴びれば消えてしまう淡い存在は、あのような戯言、口が裂けても、言えません。
酒を覚えたとは言え、高く
現を抜かすようなことは、誓ってありませんでした。地を這うことなど、私には許されないのですから、愛されるためには高潔でなければならないのです。何より、創作物の敬愛、思慕。それらは生活の潔白、潔癖が最も重要だったようですから、残り少ない私の章を着飾ってみせようという、
終わりを決めてしまえば気楽なもので、今の今まで止まっていた筆が嘘のように、流水の流る如く仕事に精を出しました。
どうやら私は、崖の前。それも、一歩踏み出せば命を落としてしまう、岩をも削る濁流のせめぎ合う断崖でないと、書けないようです。今まで滞っていた執筆が進み、初めは困惑こそしていた桜庭も異変無しと判断したのでしょう。特段気にする様子もなく、ゆるやかに、穏やかに時が進みました。
「矢張り、私は駄目なのです。先が見えません。近頃は、食事も満足にできず、人々が、当然にしている生活が、私には出来ないのです。それが、恐ろしく、許せなくて、同時に外界が恐ろしくて堪らないのです」
嘘とは、微量の真実を混ぜること、それこそが「本当」に近付ける基本なのです。すべてを虚言で塗り固めてしまうと、現実味を失い、看破に一歩近づかれてしまうので、いけません。
医者との対話では、時に顔を覆い、時にはぼんやりと、医者から視線を外し、集中せずに窓の外などを見て、その時私は悠々と羽を広げる野鳥などを見ているのですが、医者が口を開き、空気を揺らす直前に、ほろりと一粒涙を流してみせるのです。私の生涯、最も集中した舞台は診察室でした。
医者も、患者は私一人ではありませんから、それを数回繰り返すと、私の顔を一瞥しただけで、診察らしい診察をすることもせずに、簡単に近況を聞いて(それも、本当に聞いているのかもわからない生返事で返されていました)、なにか数行書き連ねたかと思えば、早々に病室から追い出すようになったので、その努力も次第に必要なくなり、桃の花が咲き乱れるころには全てが終わっていました。薬も診断も必要がなくなる、最後の診察。医者も変化のない希死念慮と病態に辟易していたのでしょう、ボールペンで机を叩きながら、暇手で額を抑え、一言。吐き捨てるように呟いたきました。
「普通の人間らしい生活が出来ないんですね」
私には、人の生活というものが分かりません。
手を伸ばして、藻搔くほど生きる事に執着もなく、今すぐこの心臓が止まればいいと嘆くほど、死を夢見ているわけでもないのです。ただ、足元に絶望が付き纏っている。未来に緞帳が掛けられたように見通しがなく、息をするたび、寂寞と不安が肺を焼いている。輝かしい景色に心躍らせることが出来ず、哀惜に涙を流すことも難しく、ひとが感情を揺さぶられている情景に共感が出来ない。
日々を明朗快活に、清く、明るく、ほがらかな心持ちで生きている者に、一種の羨望の眼差しを向けてすらいました。私が持たないものを、こぞって、それが普通であるとでも言うように、見せびらかすように持っていること、それが羨ましく、同時に憎らしく、どうして自分にはそれが出来ないのか。悩み、苦しんでいました。演じる事でしか、「人」と分類される存在になれない。演じていた所で、すべてが虚構で、それがどうしても虚しくなる。希死念慮にもならない落胆が、私の背後を着いて回っている。そんな、私の全て見破られているかのにような、感覚。そのたった一言が、私の意志を強固なものにしました。
花筏に乗って、あの人に会いに行こうと思ったのです。六文銭に手を伸ばした筈だというのに、掴んだのは、放棄したはずの明日でした。
どうして、息をしているのか。目を覚ましてしまったことに絶望して、間髪入れずに、形容しがたい焦燥感が身体を駆け巡りました。私が思っていたよりも、人の身は頑丈で、放胆だったようなのです。私の計画は失敗に終わりました。
発見されて、丸一日目を覚ますことなく、病室を占領していたらしく、目が回るほどの忙しさで検査をされて、薬物乱用に関しては、自然に任せて体内から排除するしかないとのことで、中途半端に生き残ってしまったものですから、暫らくは胃の中を暴れ回る胃酸に嗚咽を漏らす毎日でした。
幾ら水を飲んでも、喉の渇きが治まらず(これは、睡眠薬を次々に飲み干していた時から変わらない症状でした。水分の補給と同時に、一粒錠剤を流し込んでしまっていたので、その乾きが潤うことはありませんでした)、かと言ってその時の私の拒食は、水分すら受け付けない有様だったので、致し方無く点滴を頂く事になりました。
体に管が繋がっていること、その上、薬による倦怠感の所為で、病院内を散歩する気にもならず、私は時間の殆どを病室で過ごしていました。病院の壁というものは、存外薄く、防音もなっていないので、部屋の前の雑談など容易に耳に届きました。ある程度知名度を保持している人間の入水自殺ともなれば、院内での格好の的になることは明らかでして、暫くの間、廊下から聞こえる大衆の噂話は私のことで持ち切りでした。
「自殺なんて、ただ注目されたかっただけでしょうね。きっと小説のネタにでもするのよ。立派な家の息子だそうじゃない、あんな人の言う孤独なんて、大したものじゃないのに、大袈裟よね」
「小説も読んでみたけれど、あれでは駄目ね。本当の不幸なんて知らないんだわ。あれだけ評価されているのに、傲慢で厭ね」
良い家に生まれれば、幸福なのでしょうか。数字に恵まれている人間は、孤独を主張し、死を望むことも許されないのでしょうか。自死は、極悪の象徴とでも言うのですか。私が白痴を装ったら、人々は私を白痴と認識し、私が秀才のように振る舞えば、彼は秀才であると噂し、私が、意志薄弱でどうしようもない弱者として演じれば、やはりそう認識していたのに。心から助けて欲しいと救済を求めて縋り付けば、あれは嘘に違いない、傲慢な人間の怠惰であると、指を指すのか。
死は、救済なのです。でなければ、私は一生救われない。そうでなければならないのだ。
死ぬよりほかない。それに、気が付いてしまったときに、初めて心から、生きていることに絶望し、涙が溢れました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます