第19話
雨の所為でしょう。上着の肩はぐっしょりと濡れていて、革靴も雨に晒されていて、お世辞にも招き入れたいなどと思える風体ではありませんでしたが、訪問販売の類にも見えませんし、外で待たせることも失礼であるという私の良心が働いて、渋々家の中に招きました。
居間に通されてとうとう帽子を脱いだので、私はその正体が、志浦と言う、私と同じ出版社に世話になっている作家である事を認めました。彼の正体を暴いたとて、なぜ彼が、しかも突然この家を訪ねてきたのか、私は知る由もありません。志浦と対峙したことなどは一切なく、私が彼を知っていたのも、志浦という男が所謂「売れっ子作家」と呼ばれる人材だったがゆえの産物でして、彼が私の存在を認識していた事実に、私は始終、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたことでしょう。
「対談の仕事が舞い込んだので、人柄を見て受けるか否かを判断しようと思ってね」
どうやら私は、品定めを受けているようです。見たところ、私とそう年が離れているようには見えませんが、公表されている年齢が正しければ三十代前半だと記憶しています。
気難しい人間である。真坂、たかだか仕事の対談。それも、まだ決定事項ですらないもののために家まで押し掛ける無礼。私は何時の間にか、知りもしない人間にすら、下民の様に見下されいたようです。
家の中を舐めるように見渡し一言、二言、言葉を交わしたかと思えば、出した茶に手も付けずに立ち上がって、さっさと帰ってしまったのです。
何たる無礼! 信じられないものを見た気分でした。人と認識する事すら憚られる。不敬を働かれたのだ。いくら私が悪意に過敏に反応するとはいえ、あの態度では、赤子ですら嫌な男だと顔を顰め、泣きだしてしまう。あれは人ですらない、あんな者と、作家として肩を並べているなど、己が恥ずかしくすら、あります。
少し遅れて、志浦との仕事が私にも通されました。どうやら私は、あの男の眼鏡にかなったようです。社会というものは不条理で、新米の私が彼のような人気者との仕事を突っぱねることなどは許されず、桜庭の必死の懇願によって、厭々ながらにもあの男と対面することになりました。
珍しく晴れて、前夜の雨粒を乗せた梅の花が美しく日光を吸収し煌めきを放っていました。志浦は、前回の濡れ鼠のような恰好ではなく、質のいい背広に身を包んで現れました。私を数秒見つめたかと思えば、ふ、と目を逸らし、窓の外の梅を注視したのです。これはもしや、彼の悪い癖のひとつかもしれませんが、全くいけない。他人と対面している自覚、人を、不快にするという自覚が、あまりにも欠けている。何度も、同じ人間に上から下まで見渡され、挙句の果てには興味を持つ事すら億劫だとでも言わんばかりに溜息を吐かれ、視線を外される。あの瞬間の腹立たしさと言ったら!
「君の作品を読んだ。全く、陰鬱で、どれも悲劇ばかりではないか。読んでいるだけで気分が落ち込む。あれでは目新しさはあれど長くは続かないでしょう」
「美しい喜劇ばかりが文学ではないと思いますが……」
「自らの苦悩を読者に見せつけ、同情を誘うことが、貴方の文学ですか?僕たち文筆家は、一歩、また一歩と読者の先を行き、道を提示すべきでしょう」
私と志浦は、相容れぬ存在である。
氷炭相容れず。馬の合わない者は、とんと合わない。互いに、歩み寄り、理解を求めなければ、共存など何の意味も成さない。たかだか、小説家一人が、文学の在り方を他者に説くなどと。あまつさえ、読者に説法など、愚の骨頂。
「そのような高尚な存在でしょうか。寄り添い、包み込み、痛みを分かつ。読者の人生に関わるかは、読者自身が決める事でしょう。」
「君のそれは、独り善がりというものだ。実際問題、失笑こそすれど、救済などは得られなかった。その上、作者がこのように自堕落では……」
「作品と私は関係がないでしょう」
申し訳のないことに、この対談は失敗と判断され、記事に掲載されることは愚か、志浦とはこのような機会を設けない様にと、双方の担当間で取り付けられたようで、私は何の成果もなく傷つけられ、土足で、私の作品を踏みつけられたのです。
殊勝な言葉を紡ぎ、啓蒙活動家のように講釈を垂れ、立派な人生を歩んでいないものは、物を綴ることすら許されないのか。
黒く淀んだ思考が、泥濘のように足に絡みつき、身体を覆い隠し肺にまで浸食するようでした。息が苦しく、吸い込む空気全てが重苦しくて堪らない。
大きな口を叩いたというのに、書いたもの全てが駄作に見えてならず、一度は流行の「先陣を切り、読者の手を引く」作品とやらを作ってしまおうかと血迷ったのですけれど、上手くいかず文章がどうにも、しどろもどろで、つたなく、読めたものではありませんでした。
私は、絶望に沈んだ者を、真綿で包み込むために、筆を取ったのです。彼らの絶望の隣に、そっと腰を掛けて、明日を生きることを許容できるように。いつかの私が救われたように。正しいことだけが、正解ではないのだと。知らぬうちに、見知らぬ誰かが明日を掴むことが出来れば、それでよかったというのに。
志浦は、変わらず書き続けているようでした。もしや、
「気に食わぬ奴を言い負かせた」
と高揚感に浸っているのかもしれません。私は、めっきり書けなくなっていました。
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