第17話

 親の言いつけに従い、卒業と同時に父の別荘を出て三鷹市の、書斎と居間、寝室のみという小さなアパートに部屋を借り、仕事部屋兼自宅ということにして、執筆活動に専念しました。

 一人の生活というものはとても気楽で、こそこそと仕事道具を広げ、怯えながら精神をすり減らして手を動かす必要はなく、伸び伸びと生活に専念することができることに、初めこそ感動し、甘受していたのですが、習慣とは恐ろしく、人間の敵です。夢のような環境にも次第に慣れていき、今まで、孤独を恐れていたことすら馬鹿馬鹿しくすら思えました。

 深く付き合った友人もおらず、三年を共にした彼らとも、卒業と共に簡単に縁が切れてしまいましたので、この家に訪ねてくる者と言えば学生から付き合いのある桜庭くらいのもので、それも仕事ですから数十分、長くとも数時間程度ですから、私の道化は大きな負担にもなりませんでしたし、私は他者との関係性の構築に、人一倍、細心の注意を払っていましたので、桜庭が私に苦言を呈すことはありません。私たちの関係は、酷く軽薄で、信頼も信用もないように思えました。

 というのも、あくまで桜庭のことは、「仕事上必要な人材」という認識であり、それ以上でもそれ以下でもなく、その上私は、初対面で覚えた不信感ゆえに彼を信用してしまっていいものなのか、考えあぐねていましたので、必要以上の会話は避けていたのですが、桜庭と言う男は大変厄介な性質を持っていまして、どこか、佐倉の強引を想起させました。

 その時すでに、作家と言う職に就いて二年程経過していましたが、作家同士の親交というものに頓着がなく、私は現状に十分満足していましたが桜庭はそれを良しとはせず(後々聞くと、桜庭の言い分としては、私の特性に気が付いておらず、それゆえのお節介は勿論の事、人間関係の縮小によって感性が鈍感になり知見が狭まることを危惧したからこそだったようです。これは私自身の道化が遠因ですし、淀む水に芥溜まるという言葉もありますから、これを聞いてしまうと責める気にもなりませんでした)幾度も座談会や対談の場を設けて頂いたのですけれど、上手く行きませんでした。

 対面している数時間は、私も得意の演技を存分に発揮しますから苦痛もなにもありませんけれど、問題はひとりになった際の静寂でした。ぼんやりと宙を仰ぎ、自分自身、あのときの言葉選びは正しかっただろうか、湯呑を置く音が、すこし大きかった、などと些事すら思い返して赤面し、気分を落ち着けるためにわざと失笑して、ああ、今日は何もしたくないと怠惰に陥ってしまうという、なんとも堕落した、滑稽な結果になってしまうので、次第にそのような機会も減っていきました。

 そのような、華やかとは無縁の作家生活を送って来た私に特別大きな事件などはなく、四季を憂うことも忘れて日々をいたずらに消化して、ああ、年が明けた、と気が付いた時には成人の年になっていました。

 とはいえ、故郷に帰ることもなく、当初の取り決め通り実家との接点は完全に断ち切られていましたので、私自身年を重ねている事実をどこか夢見心地な気分でいたので、成人したといわれても実感がなく、そんな調子ですから、私小説などを書いた直後に、

「子供がそのまま大人になったような」

 などと読者から批評が送られてきたとしても反論などはできず、身の振り方を、と思案してみますが、突然「私は成人いたしましたので」などと言えるはずもありませんし、結局私と言う男は怠惰なもので、思考の放棄を繰り返して今のどうしようもない唐変木が出来上がってしまったのです。

 私の名が、じんわり、ゆっくりと、侵すように世に出てきて、書店で屡々大きく宣伝されることもあり(私にはそれすらも実感がなかったのですが)高い波に晒されはじめた時、突然父からの便りが届きました。

 どうやら故郷の田舎でも作品が有名らしく、彼らの目にも入ってしまい、読了したという報告をわざわざ文書で送って来たのです。昔から父は厳格なひとで、私は褒められた記憶がさしてありません。ごく短期間でしたが、優秀な評価を持ち帰ると褒めそやされることもあり、しかしそれは母の役割で父からの激励の記憶などは、数分記憶を掘り返して、三桁の数字が記された再生紙を一瞥してたった一言

 「よくやった」

 とふてくされた子供の様に呟いた一瞬の記憶、ただひとつでした。今回も酷い批評であると覚悟していましたが、その内容というものも、あまりに口汚く、まるで言葉を覚えた獣が激情のままに書いたもので、思い返すことすら嫌になりまして、いやしかし、父の恐ろしさというものも十分に知っていますから捨ててしまうと後が怖く、封印してしまうような気持ちで机のなかにそっと仕舞い込みました。

 父からの手紙は、新作を発表する度に届き、次第に作品に触れられることもなくなり、私個人への宣戦布告に染まっていきました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る