第10話
定期試験直後で、夏季休暇に入る直前でした。私の通っていた学校は、その少しの期間は授業が午前で終了し、各々部活動に励んだり、帰途に着くように促されていました。私は部活動に所属していませんから、普段であれば真っすぐ校門を出て、家に向かうのですが、その日は朝から、新しい小説の構想ばかりが頭のなかにあって、早く書きたいと、貧乏揺すりすらしてしまいそうな焦燥感に駆られていました。
そんな中で、お行儀よく電車に乗ることなどできる筈もなく、例に漏れず私は図書室の隅の、窓際で筆記用具を広げました。
次に書こうと思ったものは、ひとつ前に書いたものよりも短いものでした。(とはいえ、前回のものは蛇足が多いもので、無駄な長編であったと言っても過言ではないのですが、それでも、構想段階のこの作品は非常に短いものでした)羊飼いと令嬢の、身分の差に悩まされる若人の恋愛を書こうと決心したのです。
「隠してたのってこれ?」
佐倉でした。私は集中しすぎていたのか、普段通りであれば直ぐに気が付く人の気配に、今回ばかりは気が付けず、まんまと彼女に見られてしまったのです。簡単に構想を文字に起こし、本文を書き始めて幾らも時間が経っていましたので、注視すれば執筆活動であると一目瞭然でした。
見られてしまえば、如何に誤魔化そうと言葉を尽くしても、底なし沼で足掻いているように、彼女の罠に
断りを入れる前に私に向かい合うように座った佐倉は、私の手元の文字列にはとんと興味が無いようでした。それ以上の言及をすることはなく、参考書を広げました。
元来、人の目を気にして委縮してしまう質ですので、人前で作業に没頭するということには慣れていない私でしたが、あまりにも佐倉が静かなものですから、そのうち、目の前に人がいるという事実すら忘れていました。
ふと、気が付いた時には既に辺りは暗く、校内放送は下校を促していたと思います。と言うのも、私が時間の経過を認識したのは、眼前に座っていた筈の佐倉が、何時の間にか隣に立っていて、肩を軽く叩いて私の意識を引き戻した時でした。
時間も忘れて集中していたことが功を奏して、朝から私に覆い被さっていた構想はとっくに形を成して、本文も中盤に差し掛かっていました。物語は佳境に入っていて、もうすぐで羊飼いと令嬢は結ばれるか、否かというところで、ふと、私の筆が止まってしまったのです。
私は、恋を知りませんでした。人を愛してはいましたが、人に恋したことなど、ただの一度も無かったのです。よく聞く、胸をときめかせ、心臓が早鐘を打つという大事件は、私に起こったことがありませんでした。ぼんやり、漠然と想像することは容易に出来るのですが、物語を膨らませるには、理解する必要があります。活字で手に入れた浅はかな理解では、私は満足できそうにもありませんでした。
ですから、丁度いい頃合いだったのでしょう。
「もっと書きたい」
と駄々を捏ねる気にもならず、私は机上に広げた私物を片付けて、佐倉に並ぶように立ち上がりました。私と佐倉の乗る電車は、明大前の乗り換えまでは一緒だったので、このまま一緒に向かってしまおうという話になって、外に出ました。
私も知らなかったのですが、佐倉は存外読書家だったようで、私の執筆活動に興味を持っているようでした。しかし、実際ひた隠しにしていた事実を暴くと、怖気づいてしまうのでしょうか。不自然に私に視線を移しながらも、歩いて数分は私の提供する、やれ試験のあそこが難問だった、やれ近所の犬の咆哮のせいで寝不足だという、当り障りない話題に花を咲かせていました。
現代には、読書家とは名ばかりで、教科書に載っている一作品を気に入り、何度も読み返しただけの浅学な者が有り触れていますから、正直なところ、私は彼女に大きな期待をかけてはいませんでした。
然し、彼女は私の予想を上回る程の愛情を、文学に注いでいました。どうやら、私をはじめとした、学校にいる人間は勿論のこと、家族にすら活字に傾倒していることをひた隠しにしてきたようです。彼女もまた、悲しい道化でした。
「なんで隠してるの?」
佐倉が打ち明けたことで、触れてはいけない領域というものが、彼女の中で決壊したのでしょう。中身のない会話よりもずっと気になっていた確信に触れた彼女の声は、聴きなれた溌剌とした声色からは想像も出来ない、蚊の鳴くような、震えた声でした。
「君と同じですよ。奇異の目で見られたくはないでしょう」
実際には、私がこの事実を黙っていたのは、実家の圧力という、未だ私に伸びてすらいない、私自身の臆病が原因だったのですが、それを明かしたところで、彼女の興は簡単に醒めてしまう。彼女に寄り添った回答を与えた方が、ずっと良いのだと、長年演じ続けた演者の勘とでもいうのでしょうか。兎にも角にも、私は知っていたのです。
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