第9話
しかし、私は見逃しませんでした。ひとり、口も開かず、ただ笑みを携えて私を見ている人間が居たのです。彼女は普段明るく、お喋りな方でした。私の意識した「外れた」返答に、良く笑い話合うのですが、その時ばかりは口を閉ざしていたのです。
「皇君、本当はなにがあったの?」
佐倉というその女生徒は、私と席が近く、少し声を張れば充分に会話できる距離でした。授業の開始直前になり、解散し着席した後に、彼女は場所も考えずに問いを投げかけました。彼女は端正な顔立ちをしていて、透き通るような白い肌と、くりくりと、小動物のようにまるい瞳は、当時も多くの視線を集めていたそうです。曖昧な表現になってしまいますが、私には、人の容姿の良し悪しが、とんと分からないのです。私自身、幼い頃から容姿を褒められることはありましたが、それよりも、身に纏った着物を讃えられる方が余程嬉しく、また、大いに共感出来ました。
「言ったじゃないですか、良い場所を見つけることが出来たと」
「嘘ばっかり」
悪戯に笑った彼女に反撃をしようと開いた口は、けたたましい予鈴によって掻き消されました。
「また後でね」
手を振った佐倉は私から視線を外し、授業に備えていましたが、私は到底そんな気分にはならず、腹の中を居座る不快感をどうにかしたくて、如何にあの女を言い包めるか、そればかりが頭を支配していました。
男というものは単純で、差し出された物を真実であると認識する性質があります。しかし、女は、執拗に疑い、その上自己都合に合わせた解釈を捏ね回して満足するのです。どうにか、彼女の暴走を止めなければならない。板書に勤しみながらも、私の意識は彼女に向いており、気が付くとたっぷり五十分を使い果たしたのですが、打開策などは見付からず、私はすっかり、思考を放棄してしまいました。流るるままに任せてしまえと思ったのです。
「教えてよ、気になるでしょ」
開口一番に問い詰めた彼女に辟易して、溜息すら出てしまいそうでした。私は、宮木のように特定の人物と深く交流を深めるようなことは、もうしていませんでした。彼女とは特別な関係性を築いていたわけではないというのに、彼女はなんだか、私との距離感を見誤っているようでした。私が白旗を上げて、白状する瞬間を待ち侘びていたのでしょうが、佐倉に吐露するよりも、今ここで書き上げた原稿をばら撒いてしまう方が、幾分も気分が良いとすら思うほどでした。
「何もないですってば。何ですか、もう」
常人であれば、二度も三度も拒否されれば
「そうですか」
と身を引くものなのでしょうが、豪胆で、醜悪なこの女は、執拗に私に付き纏いました。もしかして、私の道化に気が付き、仮面を剥がしてしまおうと思っているのではないかしら。一度不安に胸を支配されたものの、彼女は単純な好奇心で私に構っているようで、隠せば隠すほど、彼女の追及は根深くなりました。
私は、暴かれることを何より疎み、厭うのです。見せているものだけ、見て貰えたら、それで良いのです。隠したものには目を向けないで、追及など、しないで良いのです。佐倉の、幾日も続いた執着は、私の人への猜疑心と嫌悪感を増長させることに、大いに貢献していました。よもや、あれはあの女の計画だったのではないかとすら思っています。
私は、高校生という華々しい三年間を、この佐倉という一人の女に支配されて消化してしまったのです。
私の執筆活動は主に自宅でしたが、時折、校内に併設する図書館を利用することがありました。中学時代は使用人が運転する車に乗って、登下校をしていた私ですが、東京の学校ともなればそのような面倒な送迎は必要ありませんでした。数分置きにやって来る電車に乗ってしまえば、自家用車に乗ってしまうよりも、
ですから、毎日、決められた時間に来る迎えによって、大体決まっていた帰宅時間が、高校生になってからというもの、疎らになりました。
小説のアイデアが、突然頭に降り注いだとき、慌てて手帳に書き示すのですが、それでは到底間に合わない。書いてしまうのが、一等良いのです。雪の様にゆっくり、ゆっくりと、しかし着実に募る「良い文」は、大抵放課後の、夕陽が窓に差し込み、昼間のけ
そのような時に、良く利用していたのが、図書室でした。自室のように原稿用紙や、万年筆を使うことは出来ませんから、裏紙に、シャープペンシルを使って、それはもう、熱心に机に向かっていました。週に何度あるか、ないかのそれは、今まで司書に見られることはあっても、それ以外の人物に見つけられ、ましてや言及されたことなどはなく、安心しきっていたのでしょう。
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