第8話

 使用人は、私に無闇矢鱈と干渉することはしませんでしたので、顔を合わせるのは食事時と、登校前の二言三言交わされる会話に限定されていました。それも非常に潔いもので、

「行ってきます」

「はい、お気を付けて」

 という、あってもなくても変わらないような、義務的なものに過ぎませんでしたこれは、私が彼との交流を避けていたわけではなく、彼との生活の時間帯が大きくすれ違っていたことが原因なのです。

 彼は、私が留守の間に家事を行い、帰宅に合わせて風呂と食事の用意を済ませて私を出迎えて、全ての用事を早々に終わらせてしまうと、広い別荘に用意された彼の自室に籠ってしまうのです。これは私も同様で、居間に長居するようなことはなく、直ぐに自室に下がり、執筆活動に精を出していたものですから、この家に会話がないことは何の不思議でもなく、私達が別段、重苦しい関係性を構築していたという事実もありません。

 使用人は、私の執筆活動に気付くことはなく、私も巧妙にそれを隠していました。噂というものは、シーツに零した珈琲のように、あまりに簡単に広がっていくことを、私は良く知っていました。万が一私が何か、怪しい夜更かしをしているなどと思われてしまえば、故郷の両親に簡単に明かされてしまうと分かっていましたから、私の創作活動は、誰にも悟られてはならない秘密としていたのです。

 学校というものは、酷く退屈です。日々を消費する毎に、小説家という甘美な響きに心酔していった私は、勉学に身を投じるよりも、自室に正座して、原稿用紙に向き合う方が余程有意義だと考えるようになっていました。未熟な人間であれば、こう思ってしまった後は簡単に堕落の一途を辿り身を滅ぼすのでしょうが、私には、確定しない未来の為に、積み上げた石を破壊する蛮勇は、持ち合わせていませんでした。

 私は良く、博識だ、熱心だと褒めそやされましたが、執筆を始めてからというもの、私の勉学への熱は冷え切っていたようです。どうやら私は、ひとつ夢中になると、ほかの物に目を向ける事ができない質のようでした。今まで、これほど熱中した物事などなく、何事を見るにも私は、どこか俯瞰的な、諦観のようなものを持っていたものですから、私のなかにこれほどの熱情が秘められていたのかと驚愕しました。

 この、ようやっと手に入れた、人間らしさと形容すべきでしょうか、愛慕にも似た文学への執着が、解けて無くなってしまわぬように、私は筆を持ち続け、生み出し続けました。宮木に触発されたことには変わりありませんが、私には確かな信念がありました。

 きっと私は、私を許すことも、私を救うこともできません。誰も私を救えないのです。足掻き手を伸ばし、縋ったところで、私を理解する者など現れないのです。だからせめて、私が作り上げた世界には救済を作ろうとしました。大団円などは必要ありません。ただひと匙の、ちいさな幸福を散りばめた、絵空事を綴ろうと誓いました。

 一番初めに綴ったものは、思い返してみると見るに堪えない、構成も展開も滅茶苦茶で、とても世に出せるようなものではありませんでしたが、人知れず書き上げたという達成感が私を支配しました。あの高揚感は、まるで昨日の出来事のように覚えています。宙でも飛べるのではないかしら、いますぐ、誰かに読んで欲しい。そんな甘い妄想を持ちながら、私は誰にそれを読ませることもなく、そっと引き出しの中に原稿用紙を片付けてしまいました。

「今日は花が咲いたみたいだね、いいことでもあったの?」

「そう見えますか?」

「うん。いつもより元気だよ」

 私の昂りが、ひょっとすると、仮面の隙間から這い出ていたのかもしれません。翌日の教室で、突然声を掛けられて、思わず心臓が跳ね上がりました。

 教室内で声を掛けられる事は、珍しくはありません。新しい土地で過ごすに連れ、自分でも、本来の自分との境界線が曖昧になってしまうほど完成した「道化」のお陰でしょうか。生家を知る人間のいない、両親という影の差さない場所だったが故でしょうか。はたまた、そのどちらかでしょう。故郷よりも友好的で、純粋な彼らの発する言葉に、私は余計な委縮をすることなく、自然なお道化を演じる事が出来ました。

 男女四人ほどの少人数で昼食を摂って、そのまま椅子に座って雑談に興じていると、突然そう切り出され、戸惑ってしまいました。もしや、私の道化に気が付いてしまったのではないか。宮木に見破られたあの、冷ややかな眼が思い出されて、背筋が凍りました。実際私はその頃、昨夜仕上げた小説に没頭していたのですから、私が感知していない瑕疵があったとしても不思議ではなかったのです。

「何かあったなら教えてくれよ」

 はて、どうしたものか。私は小説のことなど、他に漏らすつもりなど、少しもありませんでした。数秒思案してから首を緩く傾げて、まさに今、思い出したかのように緩慢な動きを心掛けました。

「なにもありませんよ。ああ、でも最近見つけた喫茶店が課題をするのにぴったりで」

「また勉強の話してるよ。もっと遊んだっていいと思うけどな」

 口から出任せ。わざとらしく顎に手を当てて吐いた言葉を、存外あっさりと信じた彼らは口々に私を労り、最終的には、今度そこに遊びに行こうということで話が纏まり、私への言及は幕を閉じました。

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