第6話 キャンペーンの裏側

プロジェクト開始から1ヶ月が経ち、「ダイバーシティ&インクルージョン推進プロジェクト」は社内で確固たる存在感を示すようになっていた。河野のデザインしたロゴは、社内のあらゆる場所で見られるようになり、社員証の裏には「私たちは多様性を尊重します」というメッセージとともに小さなロゴが印刷されていた。


鈴木の提案した「正解のない対話」ワークショップも好評で、様々な部署から社員が参加していた。表面上は、プロジェクトは成功の道を歩んでいるように見えた。


しかし、河野は微妙な変化を感じ取っていた。


「河野、ちょっといいか」


月曜日の朝、高橋部長が河野のデスクに近づいてきた。いつもの穏やかな表情だが、どこか緊張感を漂わせている。


「はい、何でしょうか」


「会議室に来てくれないか。新しいプロジェクトについて話があるんだ」


「新しいプロジェクト?」


高橋は周囲を見回してから、小声で言った。「ダイバーシティプロジェクトの延長線上のものだ。詳しくは会議室で」


河野は不思議に思いながらも、高橋に従って会議室へ向かった。そこには鈴木と田中、そして経営企画部の若手社員・西村がいた。


「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」高橋は会議室のドアを閉めてから言った。「今日は特別なプロジェクトについて話し合いたいと思います」


高橋はノートパソコンを開き、スクリーンに映し出した。そこには「D&I社会貢献キャンペーン企画書」というタイトルの資料が表示されていた。


「当社はダイバーシティとインクルージョンへの取り組みを、社内だけでなく社会に向けても発信していきたいと考えています」高橋は説明を始めた。「具体的には、LGBTQの若者支援を行うNPOへの寄付キャンペーンを実施します」


河野は鈴木を見た。彼女は少し困惑した表情を浮かべていたが、すぐに平静な表情に戻った。


「このキャンペーンは、当社の社会的責任を果たすとともに、ブランドイメージの向上にも貢献するものです」高橋は続けた。「そして、メディア露出も見込めます」


スライドには、予算や実施期間、そして期待される効果が詳細に記載されていた。特に「メディア価値換算」という項目があり、このキャンペーンによって得られる広告効果が金額で試算されていた。


「この企画は、すでに社長の承認を得ています」高橋は言った。「そして、皆さんにはこのキャンペーンの実行チームとして参加していただきたいと思います」


河野は違和感を覚えた。この企画は明らかに広報的な色彩が強く、鈴木が大切にしていた「本質的な変革」という理念とは少し方向性が異なるように思えた。


「質問があります」鈴木が静かに言った。「このキャンペーンは、私たちが進めている社内のダイバーシティ推進とどう連携するのでしょうか?」


「良い質問ですね」高橋は頷いた。「これは社内活動の『見える化』と位置づけています。内部の取り組みを対外的にアピールすることで、社会的評価を高めるわけです」


「ただのPRではなく、実質的な支援になるよう、寄付先のNPOとは密に連携する予定です」西村が補足した。「彼らの活動を知ってもらうためのイベントも計画しています」


議論は続き、具体的な実施計画やタイムラインが決められていった。河野は黙って聞いていたが、この企画がトップダウンで決定され、既成事実として提示されていることに不快感を覚えた。


会議が終わり、メンバーが退室する中、河野は鈴木に近づいた。


「この企画、事前に聞いていましたか?」小声で尋ねる。


鈴木は少し困ったように頭を振った。「いいえ、私も今日初めて聞いたわ」


「そうですか…」


「でも」鈴木は前向きに言った。「寄付キャンペーン自体は悪くないと思う。やり方次第では、意義のあるものになるかもしれないわ」


河野は黙って頷いたが、心の中では疑問が膨らんでいた。


---


その日の午後、河野は新しいキャンペーンのビジュアル案を作成するよう指示を受けた。彼はデスクで黙々と作業を続けていたが、集中できない。高橋の言葉が頭の中で繰り返されていた。「ブランドイメージの向上」「メディア価値換算」——これらの言葉は、プロジェクトの当初の理念とはかけ離れていた。


「調子はどう?」


田中が元気な声で近づいてきた。彼はキャンペーンのコピーライティングを担当することになっていた。


「まあまあかな」河野は曖昧に答えた。


「俺は正直、このキャンペーンすごく良いと思うよ」田中は興奮した様子で言った。「会社が本気でLGBTQの若者を支援するなんて、素晴らしいじゃないか」


「うん、それ自体は良いことだね」


「何か気になることでもあるの?」田中は河野の表情に疑問を感じたようだ。


河野は少し躊躇った後、正直に言った。「このキャンペーン、PR色が強すぎない?」


「そりゃあ、会社の活動だからPR要素はあるさ」田中は肩をすくめた。「でも、実際に寄付もするし、若者たちの助けになるなら、win-winじゃないか」


「そうかもね」


「それに」田中は少し声を落として付け加えた。「このプロジェクトのおかげで、俺たちの仕事も注目されるようになったし。キャリアにとってもプラスだろ?」


河野は友人の言葉に複雑な思いを抱いた。田中の言うことも間違いではない。しかし、そもそもダイバーシティ推進の目的は何だったのか。会社のイメージアップや個人のキャリア向上だったのだろうか。


「あ、そうだ」田中が思い出したように言った。「今週の金曜日、プロジェクトメンバーで飲み会があるんだって。鈴木さんが言ってた」


「そうなんだ」


「参加するだろ?」


「うん、もちろん」


田中が去った後、河野は再びデザイン作業に戻ろうとしたが、思うように手が進まなかった。彼はため息をつき、休憩のためにオフィスを出ることにした。


---


社内カフェに向かう途中、河野は偶然、佐藤と鉢合わせた。彼女は資料を抱えて足早に歩いていたが、河野を見ると立ち止まった。


「あら、河野さん」佐藤は微笑んだ。「ちょうど良かったわ。少しお話できる?」


「はい、もちろん」


二人は人目につかない窓際の席に座った。佐藤は周囲を確認してから言った。「新しい寄付キャンペーンのことは聞いたわ」


「もう知っているんですか?」河野は驚いた。


「ええ、経営企画部の友人から」佐藤は頷いた。「それで、あなたの印象は?」


河野は慎重に言葉を選んだ。「正直…少し違和感を感じています。もちろん、寄付自体は良いことですが…」


「PR目的が強すぎると感じるのね」佐藤は河野の思いを代弁した。


「はい、そうです」


佐藤は少し考えてから言った。「知っている?このキャンペーンが決まった本当の理由」


「本当の理由?」


「ライバル企業がダイバーシティを全面に押し出した広告キャンペーンを先月から展開しているの」佐藤は小声で言った。「それが好評で、業界内での評価も上がっている。当社の経営陣はそれに危機感を抱いて、急いでこのキャンペーンを企画したのよ」


河野は驚いた。「それが本当なら、もはやダイバーシティが単なる企業間競争の道具になってしまっている…」


「そういうことよ」佐藤は真剣な表情で言った。「しかも、予算の大部分はPRや広告に使われるみたい。実際の寄付額はその何分の一かだって」


河野は言葉を失った。状況は彼が思っていた以上に悪かった。


「でも、ここで単純に批判するだけでは何も変わらないわ」佐藤は現実的に言った。「むしろ、内側から少しでも良い方向に導く方が建設的よ」


「どうすれば…」


「例えば、寄付金の割合を増やすよう提案するとか、一過性のPRではなく継続的な支援の仕組みを作るとか」佐藤は具体的なアイデアを述べた。「あなたはチームの一員として、そういった提案ができる立場にいるわ」


河野は深く頷いた。佐藤の言うことは理にかなっていた。「わかりました、試してみます」


佐藤は微笑んだ。「頑張って。それと、鈴木さんとも率直に話してみることをお勧めするわ。彼女もきっと同じ違和感を持っているはずよ」


佐藤との会話を終え、河野はデスクに戻った。彼女の言葉を反芻しながら、キャンペーンのビジュアル案を再考し始めた。PR色の強いデザインではなく、支援の本質や若者たちの声を前面に出したデザインにしよう。そして、会議で具体的な提案をしよう。


---


木曜日の午後、寄付キャンペーンの詳細を詰める会議が開かれた。河野、鈴木、田中、西村、そして高橋部長が出席した。


「では、各担当から進捗報告をお願いします」高橋が言った。「まずは西村くんから」


西村はキャンペーンの全体スケジュールと予算配分について説明した。予算の大部分は確かに広告費とイベント運営費に充てられており、実際の寄付金は全体の30%程度だった。


次に田中がコピーの案を提示した。「『あなたの支援が、未来を変える』というメインコピーで、共感と行動を促す内容にしました」


高橋は満足そうに頷いた。「素晴らしい。感情に訴えかけるメッセージですね」


そして河野の番になった。彼は深呼吸して、準備してきたデザイン案とともに、いくつかの提案を話し始めた。


「私のデザイン案は、寄付先のNPOで支援を受けている若者たちの声や姿を中心に構成しています」河野はスライドを示した。「また、このキャンペーンについて、いくつか提案があります」


「どんな提案ですか?」高橋は眉を寄せた。


「まず、寄付金の割合をもう少し増やせないでしょうか」河野は真摯に言った。「現在の予算配分だと、PRが主目的で寄付は副次的に見えてしまいます」


会議室に静寂が流れた。高橋は少し困惑した表情を見せた。


「それから、一回きりのキャンペーンではなく、継続的な支援の仕組みを作れないでしょうか」河野は続けた。「例えば、社員がボランティアとして参加できる制度や、長期的なパートナーシップなど」


高橋は口を開きかけたが、鈴木が先に発言した。


「河野くんの提案、とても良いと思います」彼女は落ち着いた声で言った。「このキャンペーンが単なるPRではなく、本当の意味での社会貢献になるためには、彼の指摘は重要です」


「私も賛成します」意外にも田中が支持を表明した。「確かに、俺たちが本気で支援するなら、もっと実質的な内容にするべきだと思います」


高橋は困ったように西村を見た。西村は少し考えてから言った。「予算の再配分は難しいかもしれませんが、継続的な支援の仕組みについては検討の余地があると思います」


「そうですね…」高橋も少し態度を軟化させた。「寄付金の割合を40%程度まで上げることは可能かもしれません。西村くん、試算をお願いできますか?」


「はい、承知しました」


「継続的な支援については」高橋は続けた。「まずは今回のキャンペーンを成功させ、その後の展開を考えるということでいかがでしょうか」


議論はさらに続き、最終的にいくつかの妥協点が見出された。寄付金の割合を増やすこと、社員のボランティア参加を促す仕組みを作ること、そして単発ではなく継続的な取り組みとして位置づけることが決まった。


会議が終わり、メンバーが退室する中、鈴木が河野のそばに残った。


「勇気ある発言をありがとう」彼女は小声で言った。「私も同じことを考えていたけど、言い出せなかったわ」


「いえ、当然のことです」河野は答えた。「鈴木さんもサポートしてくれて、本当にありがとうございます」


「このプロジェクトの本質を見失わないよう、これからも一緒に努力しましょう」鈴木は真剣な表情で言った。「そして、明日の飲み会で、もっとゆっくり話せるといいわね」


河野は頷いた。今日の会議は小さな一歩に過ぎないかもしれないが、少なくとも方向性を少し修正することはできた。佐藤の言うように、内側から変えていくことの可能性を感じた瞬間だった。


---


金曜日の夜、プロジェクトメンバーによる飲み会が会社近くの居酒屋で開かれた。コアメンバーだけでなく、関連部署の人間も含め、20人ほどが集まっていた。


「乾杯!」高橋部長の音頭で、グラスを掲げる一同。「プロジェクト成功に!」


和やかな雰囲気の中、河野は鈴木と並んで座っていた。彼女は普段のオフィスとは違うリラックスした表情を見せていた。


「昨日は本当にありがとう」鈴木は河野に小声で言った。「あなたの発言のおかげで、キャンペーンが少し良い方向に変わったわ」


「いえ、鈴木さんのサポートがなければ聞き入れてもらえなかったと思います」


「でも、最初に声を上げるのは難しいことよ」鈴木は真摯に言った。「あなたの勇気に感謝しているの」


会話が進む中、自然と二人だけの世界になっていった。鈴木は自分の学生時代の話や、LGBTQの友人たちとの経験、そして広告業界に入ったきっかけなど、これまで知らなかった彼女の個人的な物語を共有してくれた。


「実は私、このプロジェクトを始める前はとても怖かったの」鈴木は打ち明けた。「カミングアウトすることで、周囲の目が変わるんじゃないかって」


「でも、勇気を出しましたよね」


「ええ」鈴木は微笑んだ。「それは、会社を変えたいという思いがあったから。ただ、まさかこんな形で社外キャンペーンにまで発展するとは思ってなかったわ」


「理想と現実のギャップですね」


「そう」鈴木は少し寂しそうに言った。「でも、あなたのような同志がいるから、諦めずに頑張れるわ」


河野は鈴木の言葉に心を打たれた。彼女も同じ葛藤を抱えていたのだ。


「鈴木さ〜ん!」田中の大きな声が二人の会話を中断させた。「こっちにも来てよ〜。みんな話したいって!」


鈴木は微笑み、「行ってくるわ」と言って席を立った。


彼女が離れると、隣に西村が座った。彼は少しお酒が入っているようで、頬を赤らめていた。


「河野さん、昨日はすごかったですね」西村は小声で言った。「あんな風に高橋部長に意見するなんて」


「そんな大したことじゃ…」


「いえいえ、勇気あることです」西村は真剣に言った。「実は私も、このキャンペーンの予算配分には疑問を感じていたんです。でも、経営企画部の人間として、言い出せなくて…」


河野は西村をじっと見た。彼も葛藤を抱えていたのだ。


「それに」西村は少し躊躇いながら続けた。「実は私の弟がゲイなんです。彼が10代の頃、すごく苦労して…だから、このキャンペーンが本当に若者の支援になってほしいんです」


「そうだったんですか」河野は驚いた。「ありがとう、打ち明けてくれて」


「いえ、河野さんの姿を見て、私も勇気をもらったんです」西村は微笑んだ。「これからも一緒に、このキャンペーンを良いものにしていきましょう」


西村との会話を終え、河野は居酒屋の喧騒の中、ふと考え込んだ。周囲を見渡すと、プロジェクトメンバーたちが談笑している。表面上は単なる会社の飲み会だが、一人ひとりが様々な思いや物語を持っている。鈴木の葛藤、西村の個人的な関わり、そして他のメンバーも何らかの形でこのプロジェクトに意味を見出しているのだろう。


「何を考え込んでるの?」


ふと気づくと、鈴木が戻ってきていた。彼女は少しお酒が入ったのか、頬を赤らめている。


「いろいろと」河野は微笑んだ。「みんな、それぞれの思いでこのプロジェクトに関わっているんだなって」


「そうね」鈴木も周囲を見渡した。「それが多様性の本質かもしれないわ。一人ひとりの物語が重なり合って、何か新しいものを作り出すこと」


河野は鈴木の言葉に深く共感した。それは彼がデザインに込めた「透明な層の重なり」という概念そのものだった。


「明日、ちょっと時間ある?」鈴木が唐突に尋ねた。「キャンペーンのことで、もう少し話し合いたいことがあるの」


「はい、もちろん」


「じゃあ、明日の午後2時に、代々木公園で会いましょう」鈴木は微笑んだ。「オフィスを離れた方が、率直に話せると思うから」


飲み会はさらに盛り上がり、河野は様々なメンバーと会話を交わした。その中で、プロジェクトへの思いは人それぞれ異なるものの、何かしらの変化を求める気持ちは共通していることを感じた。


帰り際、河野は鈴木と別れの挨拶を交わした。明日の約束を再確認し、それぞれのタクシーに乗り込んだ。


アパートに戻った河野は、シャワーを浴びながら今日のことを振り返っていた。キャンペーンの裏側には確かに企業戦略があり、その動機は純粋なものではなかったかもしれない。しかし、そこに関わる人々の思いは本物だった。


彼はベッドに横たわり、明日の鈴木との会話に思いを馳せた。彼女は何を話したいのだろう。そして、このプロジェクトは今後どのような方向に進んでいくのだろうか。


窓から見える東京の夜空には、わずかな星が瞬いていた。明日はどんな日になるのだろう。河野はそんなことを考えながら、少しずつ眠りに落ちていった。

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