第5話 分断の兆し
# 「透明な檻」第5話:「分断の兆し」
翌日の昼、河野は約束通り会社近くの公園に向かった。小さな公園は、オフィス街の中でほんの少しの緑を提供する場所だ。ランチタイムということもあり、スーツ姿の会社員たちが三々五々、ベンチに座ってランチを楽しんでいた。
正門前で待っていると、佐藤真由子の姿が見えた。いつもの知的な雰囲気だが、少し緊張した表情を浮かべている。
「お待たせしました」佐藤は河野に近づいてきた。「ありがとう、こんな突然のお願いに応じてくれて」
「いいえ、こちらこそ」
二人は人の少ない隅のベンチに座った。佐藤はランチボックスを持っておらず、河野も彼女との会話を優先して食事は後回しにしていた。
「それで、何のお話でしょうか?」河野は切り出した。
佐藤は周囲を見回してから、声を落として言った。「昨日のプロジェクトミーティングのことなんだけど…」
「ええ」
「あなたのデザイン案、話題になっているわ。特に、高橋部長と経営陣の間で」
河野は少し驚いた。「そうなんですか?」
「ええ」佐藤は頷いた。「私、経営企画部の友人から聞いたの。あなたのデザインが『会社の方針にそぐわない』という意見と、『革新的で深い意味がある』という意見で、議論が分かれているらしいわ」
「なるほど…」河野は複雑な思いで言った。「確かに、ミーティングでも賛否両論でした」
「でも、それだけじゃないの」佐藤は真剣な表情で続けた。「この議論が、プロジェクト自体の方向性についての対立に発展しているみたい」
「対立?」
「ええ。一方は、このプロジェクトを会社のイメージアップと数値目標達成のための手段と考える派。もう一方は、鈴木さんのように、本質的な職場環境の変革を目指す派」
河野は黙って聞いていた。彼が感じていた違和感は、会社全体にも存在していたのだ。
「そして」佐藤はさらに声を落とした。「もっと気になるのは、この対立が社内の人間関係にも影響を与え始めていること」
「どういうことですか?」
「昨日から、特定の部署で『プロジェクト支持派』と『そうでない人』という暗黙の線引きが始まっているみたい。特に若手社員の間で」
河野は眉をひそめた。「そんなことが…」
「例えば」佐藤は具体的な例を挙げた。「マーケティング部の新入社員が、ランチの席で『LGBTQの問題って本当に会社が取り組むべきことなのかな』と質問したら、周囲から冷たい視線を受けたって。誰も直接何か言ったわけじゃないけど、その場の空気が一変したらしいわ」
「それは…」河野は言葉に詰まった。
「そして、プロジェクトのコアメンバーである田中くんが、その場にいたんだけど」佐藤は続けた。「彼は善意からだと思うけど、その新入社員に熱心に説明を始めて、結局その子は『ごめんなさい、無知で』と謝罪することになったって」
河野は驚いた。田中がそんな対応をするとは思わなかった。彼は普段、人の考えを尊重するタイプのはずだ。
「もちろん、田中くんは悪気があったわけじゃないし、新入社員を教育しようとしただけなのよ」佐藤は付け加えた。「でも、結果として、その場で質問や疑問を持つことがタブーになってしまった。これって、多様性を尊重するというプロジェクトの理念とは矛盾していない?」
河野は深く頷いた。彼も同様の違和感を抱いていた。「では、なぜ私にこれを話してくれるんですか?」
佐藤は少し考えてから答えた。「あなたのデザインを見て、あなたが同じ懸念を持っていると感じたから。透明な層という表現は、見えない壁や境界線のメタファーでもあるでしょう?」
河野は驚いた。佐藤は彼のデザインの意図を正確に読み取っていた。
「それに」佐藤は続けた。「あなたはプロジェクトの内側にいながらも、客観的な視点を持っている。そんなあなただからこそ、このプロジェクトが本来の目的から外れないよう、影響力を持てると思ったの」
河野は深く考え込んだ。佐藤の懸念は彼自身も感じていたものだ。だが、どうすれば良いのだろうか。
「正直に言って」河野はようやく口を開いた。「私もこのプロジェクトの方向性には疑問を感じることがあります。でも、鈴木さん自身は本当に誠実に取り組んでいると思うんです」
「ええ、私もそう思うわ」佐藤は同意した。「鈴木さんは素晴らしい人よ。彼女の意図は純粋だと思う。問題は、組織の力学と人間の心理よ」
「どういうことですか?」
「こういうプロジェクトには、どうしても『正しい立場』と『そうでない立場』という二項対立が生まれがちなの」佐藤は説明した。「そして、人間は無意識のうちに『正しい側』に立ちたいと思う。特に、会社という権力構造の中では」
河野は黙って頷いた。
「だから、表面上は『多様性を尊重しましょう』というメッセージなのに、実際には『このプロジェクトに賛同することが正しい』という暗黙の圧力が生まれる」佐藤は続けた。「これが、私がプロジェクトへの参加を断った本当の理由よ」
二人は少しの間、黙ってベンチに座っていた。初夏の風が木々の葉を揺らし、かすかな囁きのような音を立てている。
「佐藤さん」河野は慎重に言葉を選んだ。「あなたはLGBTQ+の方だと言っていましたよね。なのに、なぜこのプロジェクトに批判的なのですか?」
佐藤は穏やかに微笑んだ。「批判的というより、懸念を持っているのよ。私自身のセクシュアリティは確かに私のアイデンティティの一部だけど、それだけが私ではないから」
「どういうことですか?」
「私がビジネスの場で評価されたいのは、私の能力と人格によってであって、私がどのカテゴリーに属しているかという理由ではないの」佐藤は静かに言った。「そして、私が会社で心地よく過ごせるかどうかは、『LGBTQ+フレンドリー』というラベルや制度ではなく、一人の人間として尊重されているかどうかだと思うわ」
河野は佐藤の言葉に深く共感した。彼女の視点は、彼が言葉にできなかった違和感を明確に表現していた。
「では、どうすればいいと思いますか?」河野は尋ねた。
「簡単な答えはないわ」佐藤は正直に言った。「でも、あなたのようなメンバーが、プロジェクトの中で常に本質を問い続けることが大切だと思う。形式や表面的な正しさではなく、真の尊重と対話が生まれる場を作るために」
河野は考え込みながら頷いた。「わかりました。私なりに努力してみます」
会話を終え、二人は立ち上がった。昼休みはもう終わりに近づいていた。
「河野さん、この話は他の人には…」
「もちろん、内密にします」河野は佐藤の懸念を理解した。
別れ際、佐藤は最後に言った。「それと、鈴木さんのことは…気をつけて」
「どういう意味ですか?」
「彼女自身は良い人だし、誠実よ」佐藤は慎重に言った。「でも、彼女も複雑な立場にいるの。プロジェクトリーダーとして、会社の期待と自分の信念の間で揺れているかもしれない」
河野はその言葉の意味を考えながら、会社へと戻っていった。
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午後のオフィスは、いつもと変わらない忙しさだった。しかし、河野の目には、些細な変化が見えるようになっていた。
昨日までは気にならなかった会話や視線が、今日は違って見える。プロジェクトに関する話題が出るたびに、微妙な空気の変化がある。誰が熱心に反応し、誰が黙って聞いているだけか。誰がプロジェクトメンバーに親しげに話しかけ、誰が距離を置いているか。
河野は自分のデスクで新しいデザイン案に取り組みながら、こうした観察を続けていた。
「河野、調子はどう?」
田中の声に顔を上げると、彼はいつも通りの陽気な様子で立っていた。
「ああ、まあまあかな」
「そのデザイン、新しいバージョン?」田中はのぞき込んだ。「おお、いいじゃないか。前のコンセプトを残しつつ、もっと分かりやすくなってる」
「ありがとう」河野は微笑んだ。「そうなるよう努力したんだ」
「そうだ、昨日の鈴木さんとの夕食はどうだった?」田中はニヤリと笑った。
「普通だよ、プロジェクトについて話し合っただけ」河野は平静を装った。
「そうか」田中はまだ意味ありげな笑みを浮かべていた。「ところで、ちょっと聞きたいんだけど」
「なに?」
田中は少し声を落とした。「マーケティング部の新人に、LGBTQの話をしたって?」
河野は驚いた。やはり、佐藤の話は本当だったようだ。「何かあったの?」
「ああ、いや」田中は少し困ったように頭をかいた。「ランチの時に、その子がプロジェクトについて質問してきたんだよ。『なぜ会社がそういうことに取り組むのか』みたいな」
「それで?」
「俺は丁寧に説明したつもりなんだけどね」田中は言った。「でも、なんか後から『圧力をかけた』みたいに言われてるらしくて…」
河野は友人の表情を観察した。田中は本当に悪気はなさそうだった。むしろ、混乱している様子だ。
「君はどう思った?その時の状況は?」
「正直言って」田中は真剣な表情になった。「その子の質問には違和感を覚えたよ。2023年の今、なぜLGBTQの人たちを支援するのかって質問すること自体が、ちょっと時代遅れじゃないかって」
河野は慎重に言葉を選んだ。「でも、質問すること自体は悪くないんじゃないかな。特に若い人なら、純粋に理解したいと思って聞いたのかもしれない」
「そうかもな…」田中は少し考え込んだ。「でも、鈴木さんみたいな当事者がいる前で、そういう質問をするのはどうなんだろう」
「鈴木さんもいたの?」
「いや、その場にはいなかったけど、プロジェクトリーダーだし…」田中は言葉を切った。「まあ、俺も少し熱くなりすぎたのかもしれないな」
河野は友人の肩に手を置いた。「君は善意でやったんだよ。ただ、これからは、質問や疑問も多様性の一部として受け止められるといいね」
田中は河野を見て、少し照れたように笑った。「お前、最近物分かりがいいな。鈴木さんの影響か?」
「そんなことないよ」河野は笑いながら言った。「ただ、いろいろ考えることがあったんだ」
田中が去った後、河野は再びデザイン作業に戻った。しかし、頭の中では様々な思いが巡っていた。この小さなエピソードは、佐藤が言っていた「分断の兆し」の一例だったのかもしれない。
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その日の夕方、河野が修正したデザイン案を確認していると、鈴木から連絡があった。
「デザイン案の進捗を見せてもらえる?少し時間あるわ」
河野は鈴木のデスクに向かった。彼女は忙しそうに資料を整理していたが、河野を見ると微笑んだ。
「どうぞ、座って」
河野はデザイン案を鈴木に見せた。修正版では、透明な層のコンセプトを保ちつつも、より伝統的なLGBTQ+のシンボルカラーを効果的に取り入れていた。抽象的でありながらも、一目で多様性を表す意匠になっていた。
「素晴らしいわ」鈴木は感嘆の声を上げた。「コンセプトを損なうことなく、より分かりやすくなってる」
「ありがとうございます」河野は嬉しく思った。
「これなら高橋部長たちも納得してくれるはず」鈴木は頷いた。「本当に良い仕事をしてくれたわ」
河野は少し躊躇った後、質問した。「鈴木さん、このプロジェクトについて、少し気になることがあるんですが…」
「何かしら?」
「一部の社員の間で、プロジェクトに関して『正しい立場』と『そうでない立場』という区別が生まれ始めているように感じるんです」河野は慎重に言った。「それって、多様性を尊重するという理念とは逆行していませんか?」
鈴木は少し驚いた表情を見せた後、真剣な表情になった。「具体的に、何があったの?」
河野は佐藤からの情報源を明かさないよう注意しながら、田中のエピソードや自分の観察について話した。
鈴木は黙って聞き、深く頷いた。「あなたの懸念、とてもよくわかるわ。実は私も同じことを心配していたの」
「そうだったんですか?」
「ええ」鈴木は少し声を落とした。「このプロジェクトが、新たな分断や抑圧を生み出すなんて、本末転倒よね。多様性を尊重するということは、意見や疑問の多様性も含まれるはず」
河野は安堵した。やはり鈴木は、プロジェクトの本質を理解していた。
「どうすれば良いと思いますか?」河野は尋ねた。
鈴木は少し考えてから答えた。「まず、コアメンバーの間でこの問題を共有しましょう。そして、次のワークショップでは、『正解のない対話』というテーマを取り入れてみたいと思うわ」
「正解のない対話?」
「ええ、LGBTQの問題に限らず、様々な社会問題について、答えが一つではないことを前提に話し合う場よ」鈴木は説明した。「そこでは、質問や疑問を持つことが尊重され、多様な視点が共有されるの」
「素晴らしいアイデアですね」河野は心から言った。
「それと」鈴木はさらに付け加えた。「次回のニュースレターで、私からメッセージを出そうと思うの。『このプロジェクトは特定の考え方を強制するものではなく、互いを理解し尊重するための対話の場を作ることが目的』というような内容で」
河野は鈴木の提案に深く頷いた。彼女は真摯にプロジェクトの本質を守ろうとしていた。
「あなたのような視点を持つ人がいてくれて、本当に助かるわ」鈴木は微笑んだ。「このプロジェクトの意味を問い続けてくれる人が必要なの」
河野も笑顔で返した。「いえ、鈴木さんこそ、本当のリーダーシップを発揮していると思います」
二人の会話は、オフィスの電話が鳴ったことで中断された。鈴木は電話に出ながら、「また後で詳しく話しましょう」と河野に言った。
河野は自分のデスクに戻りながら、少し安心した気持ちになった。鈴木との対話を通じて、彼女が本当に誠実な意図を持ってプロジェクトを進めていることが確認できた。しかし同時に、佐藤の言った「分断の兆し」は現実のものであり、これからさらに注意深く観察し、必要に応じて発言していく必要があると感じた。
---
その日の夜、河野はアパートで一人、ソファに座ってビールを飲みながら考え事をしていた。今日の佐藤との会話、田中のエピソード、そして鈴木との対話。それぞれが彼の中に様々な思いを呼び起こした。
スマホが鳴り、メッセージが届いた。鈴木からだった。
「今日はありがとう。あなたの意見を聞けて本当に良かった。このプロジェクトが本当の意味で価値あるものになるよう、一緒に頑張りましょう。おやすみなさい。」
河野は微笑みながら返信した。「こちらこそありがとうございます。共に頑張りましょう。おやすみなさい。」
メッセージを送った後、河野はスマホを置き、窓の外を見つめた。東京の夜景が広がっている。無数の灯りが、それぞれの物語を持つ人々の存在を示している。
彼は思った。多様性とは、単にカテゴリーや属性の違いだけではなく、一人ひとりが持つ物語や視点の豊かさなのではないだろうか。そして、真の包括性とは、それらの物語が自由に表現され、互いに耳を傾け合える環境なのではないか。
河野は自分の役割について考えた。彼はプロジェクトの内側にいながらも、時に疑問を投げかけ、本質を見失わないよう努める。それは簡単なことではないかもしれないが、彼にしかできない貢献だろう。
翌日のオフィスで、また新たな出来事が待っているかもしれない。しかし今夜、河野は少し希望を持つことができた。プロジェクトが真に意義あるものになる可能性を信じて。
彼はもう一口ビールを飲み、明日のことを考え始めた。
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