第7話 本音の交錯

土曜日の午後、初夏の穏やかな日差しが代々木公園を包んでいた。河野は約束の2時よりも少し早く到着し、公園の入口付近のベンチに腰掛けていた。休日ということもあり、公園には家族連れやカップル、思い思いの時間を過ごす人々で賑わっていた。


普段のスーツ姿とは違い、河野はカジュアルなシャツとジーンズという出で立ちだった。会社を離れた場所で鈴木と会うというのは初めての経験だ。彼は何度か時計を確認しながら、鈴木が何を話したいのか考えを巡らせていた。


「お待たせ」


振り返ると、鈴木が微笑みながら近づいてきた。彼女もカジュアルな服装で、いつもの職場での姿とは違う親しみやすい雰囲気を醸し出していた。髪を緩くまとめ、サングラスをかけている姿は、オフィスの鈴木美咲とはまた違った魅力があった。


「いえ、ちょうど来たところです」河野は立ち上がって挨拶した。


「こんな急に誘ってごめんなさい」鈴木は少し申し訳なさそうに言った。「でも、オフィスでは話しづらいことがあって…」


「全然構いませんよ」河野は微笑んだ。「天気も良いし、ちょうど気分転換になります」


二人は公園の中を歩き始めた。人混みを避けるように、少し奥まった遊歩道へと進んでいく。木々の間から差し込む光が、足元に揺れる影を作り出していた。


「昨日の飲み会、楽しかったわね」鈴木が会話を始めた。


「はい、いろんな人と話せて良かったです」


「西村くんとも話していたみたいね」


「ええ」河野は頷いた。「彼にも色々な思いがあるんだなと感じました」


鈴木は少し歩いてから、立ち止まった。人の少ない小さな広場に来ていた。


「ここで少し休みましょうか」


二人はベンチに腰掛け、しばらく周囲の景色を眺めていた。子供たちが遠くで遊ぶ声が聞こえる。


「実は」鈴木が口を開いた。「このキャンペーンのことで、とても悩んでいるの」


「そうでしたか」


「ええ」鈴木は深呼吸をした。「最初にダイバーシティプロジェクトを提案したとき、私が想像していたのは、もっと…本質的な変化だったの。社員一人ひとりが自分らしく働ける環境を作ること。それが私の本当の目的だった」


河野は黙って聞いていた。


「でも、このプロジェクトが進むにつれて、どんどん方向性が変わってきた」鈴木は続けた。「社内啓発から始まり、今度は対外的なPRキャンペーン。もちろん、寄付自体は良いことだし、若者たちの支援になるのは嬉しい。でも…」


「本来の目的からずれてきていると感じるんですね」河野が言葉を補った。


「そう、まさにそれ」鈴木は河野の目をまっすぐ見た。「あなたも同じように感じていたのね」


「はい」河野は正直に答えた。「プロジェクトが会社のイメージアップの道具になりつつあるような…」


「それが怖いの」鈴木は少し声を落とした。「私自身のカミングアウトも、結果的に会社のPRに利用されているような気がして…」


河野は鈴木の複雑な思いを理解した。彼女は自分の個人的なアイデンティティを公にすることで変革を起こそうとしたのに、それが企業の戦略に取り込まれてしまった。それは彼女にとって、とても辛い状況だったに違いない。


「でも、昨日のあなたの発言には勇気づけられたわ」鈴木は表情を明るくした。「キャンペーンの予算配分について意見してくれて、本当にありがとう」


「いえ、当然のことです」


「それで、考えたの」鈴木は真剣な表情になった。「このキャンペーンを、できるだけ本質的なものにするために、私たちが何をできるか」


「具体的には?」


「まず、寄付先のNPOともっと密接に連携すること」鈴木は熱心に話し始めた。「彼らの活動内容や課題を深く理解し、単なる寄付だけでなく、実質的なサポートを考える。例えば、会社のリソースを活かしたサポートとか」


「それはいいですね」河野は頷いた。


「それから、社内の活動ともっと連携させること」鈴木は続けた。「キャンペーンを通じて社員の意識を高め、職場環境の改善に繋げる。それが私が最初に目指していたことだから」


河野は熱心に聞きながら、自分の考えも整理していた。確かに、与えられた枠組みの中でも、内容を少しでも良くしていくことはできるはずだ。


「私にもいくつかアイデアがあります」河野は言った。「キャンペーンのビジュアルやメッセージについて」


「聞かせて」


河野は自分が考えていたコンセプトを説明した。表面的なダイバーシティの象徴ではなく、実際の若者たちの声や経験に焦点を当てること。そして、「多様性」という言葉の本当の意味を問いかけるようなメッセージを盛り込むこと。


「素晴らしいわ」鈴木は目を輝かせた。「それなら、PRキャンペーンでありながらも、本質的なメッセージを伝えられるかもしれない」


二人は熱心に意見を交換し、具体的なアクションプランを立てていった。話し合いが進むにつれ、当初の不安や懸念は、前向きな行動への意欲に変わっていった。


「あなたと話すと、いつも希望が湧いてくるわ」鈴木は微笑んだ。「一人では諦めていたかもしれないのに」


「僕も同じです」河野は正直に言った。「鈴木さんの本気の思いを知って、このプロジェクトに意味があると信じられます」


会話が一段落し、二人は再び公園内を歩き始めた。話題は自然とプロジェクトから離れ、それぞれの個人的な話に移っていった。


「河野くんはどうしてデザイナーになろうと思ったの?」鈴木は軽やかな足取りで隣を歩きながら尋ねた。


「子供の頃から絵を描くのが好きで」河野は少し照れながら話し始めた。「それから大学で美術とデザインを学んで…」


「その頃から、こんな繊細な感性を持っていたの?」


「そんなことはないです」河野は苦笑いした。「むしろ、狭い視野で自分のデザインだけを大事にする学生でした。でも、社会に出て、様々な人と仕事をするうちに、デザインは伝えるための手段であって、目的ではないことに気づいたんです」


「素敵な気づきね」


「鈴木さんは?広告業界を選んだ理由は?」


鈴木は少し考えてから答えた。「私は社会を変える力に惹かれたの。広告やマーケティングは、人々の価値観や行動に影響を与えることができる。その力を良い方向に使いたいと思って」


「だからダイバーシティプロジェクトにも情熱を持っているんですね」


「そうね」鈴木は頷いた。「ただ、理想と現実のギャップに悩むことも多いわ」


会話は自然と流れ、二人は学生時代の思い出や、好きな本や映画、将来の夢など、仕事とは関係のない話題にも触れていった。オフィスでは見せない表情や言葉が交わされ、河野は鈴木という人間をより深く知ることができた。


「少し休憩しませんか?」しばらく歩いた後、河野が提案した。「あそこにカフェがありますよ」


公園内のオープンテラスのカフェに座り、二人はコーヒーを注文した。初夏の陽気の中、開放的な気分で談笑する。


「ところで」鈴木が突然、真剣な表情になった。「あなたに聞きたいことがあるの」


「なんでしょう?」


「なぜプロジェクトに参加したの?」鈴木は静かに尋ねた。「最初から、あなたにはある種の距離感があったように感じていたから」


河野は少し驚いた。鈴木は彼の心の動きを見透かしていたのだろうか。


「正直に言うと」河野は慎重に言葉を選んだ。「最初は少し迷いました。プロジェクトの意義は理解していたけど、何か違和感も感じていて…」


「どんな違和感?」


「それが、うまく言葉にできないんです」河野は自分の内面と向き合いながら話した。「プロジェクトの理念自体には賛同していたのに、その進め方や、周囲の反応に何か…強制的なものを感じたんです」


「強制的?」


「はい」河野は続けた。「多様性を尊重するというメッセージ自体は素晴らしいのに、それが逆に新たな『正しさ』になって、それに従わなければならないような雰囲気が生まれることに…」


「わかるわ」鈴木は深く頷いた。「私も同じことを感じていたの。自分のカミングアウトが、周囲の人に特定の反応を強いているように思えて…それが私の本意ではなかったのに」


「そうでしたか」河野は少し安心した。


「でも、だからこそ、あなたのような視点を持つ人がプロジェクト内にいることが大切なのよ」鈴木は真摯に言った。「形だけの多様性ではなく、本当の意味での多様性と対話のために」


「そのために少しでも役に立てるなら嬉しいです」河野は心から言った。


コーヒーを飲み終え、二人は再び歩き始めた。夕方に近づき、公園の光景は柔らかな夕日に染まり始めていた。


「河野くん」鈴木が少し躊躇いながら言った。「もう一つ、個人的な話があるの」


「はい?」


「私がカミングアウトした理由は、単にプロジェクトのためだけじゃなかったの」鈴木は静かに言った。「長年、自分自身を隠して生きることに疲れていたから。そして、それが私自身の仕事のパフォーマンスにも影響していると感じていたから」


河野は黙って聞いていた。


「だから、会社がこのプロジェクトを利用して自社のイメージアップを図ろうとしていることに違和感を覚えるのに、同時に、このプロジェクトのおかげで私自身が解放された部分もあるの」鈴木は複雑な表情で続けた。「この矛盾した感情をどう扱えばいいのか、時々わからなくなるわ」


「その気持ち、わかります」河野は真摯に答えた。「完全に白か黒かではなく、グレーゾーンの中で自分の立ち位置を探すのは難しいですよね」


「そう、まさにそれ」鈴木は安堵したように微笑んだ。「あなたと話せて本当に良かった。会社の中では、こんな率直な会話ができる相手はほとんどいないから」


二人は公園の出口に近づきつつあった。夕暮れが迫り、街灯がぼんやりと灯り始めている。


「今日は本当にありがとう」鈴木は河野の目をまっすぐ見た。「あなたの考えを聞けて、とても勇気づけられたわ」


「こちらこそです」河野は心から言った。「鈴木さんの本音を聞けて、自分の考えも整理できました」


別れ際、鈴木は少し迷うような素振りを見せた後、「もし良ければ、今度の日曜日、美術館の新しい展示を見に行かない?」と誘った。


「はい、ぜひ」河野は少し驚きながらも、嬉しく答えた。


約束をして別れた後、河野は駅に向かいながら、今日の会話を振り返っていた。鈴木との対話を通じて、プロジェクトへの見方が少し変わった気がする。確かに企業の思惑はあるかもしれないが、その中でも本質的な変化を起こせる可能性がある。


そして、鈴木美咲という人間に対する理解も深まった。彼女の複雑な思いや葛藤、そして誠実さ。それらを知ることで、河野は彼女をより身近に感じるようになっていた。


---


月曜日の朝、河野はいつもより少し早くオフィスに到着した。週末に整理した考えをもとに、キャンペーンの新しいビジュアル案に取り組むつもりだった。


デスクに着くと、すでに佐藤真由子が出社していた。彼女は河野に気づくと、コーヒーカップを持って近づいてきた。


「おはよう、河野さん」佐藤は微笑んだ。「週末はどうだった?」


「まあ、いろいろと」河野は曖昧に答えた。


佐藤は意味ありげな表情で言った。「鈴木さんとの話はうまくいった?」


河野は驚いた。「どうして知ってるんですか?」


「この業界は狭いのよ」佐藤は軽く笑った。「それで、何か進展はあった?」


河野は少し考えてから答えた。「キャンペーンの方向性について、いくつかアイデアを共有しました。できるだけ本質的な内容にしていこうと」


「それは良かった」佐藤は頷いた。「鈴木さんも同じ考えなのね」


「はい」河野は少し躊躇ってから続けた。「佐藤さんにも相談があるんです。実は…」


河野は週末に考えたキャンペーンのアイデアを説明した。寄付先のNPOともっと密接に連携し、若者たちの声を直接届けるようなコンテンツにすること。そして、社内の活動とも連動させるプランについて。


「素晴らしいアイデアね」佐藤は真剣に聞いていた。「私にできることがあれば言ってね。公式メンバーではないけれど、裏方として協力するわ」


「ありがとうございます」


佐藤が立ち去ろうとしたとき、「それと」と振り返った。「鈴木さんとの関係も、大切にするといいわ」


「え?」河野は思わず声を上げた。


「仕事上の関係よ」佐藤は微笑んだ。「同じ志を持つ同志として」


佐藤が去った後、河野はデスクに向かい、作業を始めた。しかし、彼女の最後の言葉が気になった。「同じ志を持つ同志」——確かに鈴木とは特別な信頼関係が生まれていた。それは単なる上司と部下の関係を超えた、共通の目的に向かって歩む仲間としての絆だった。


そして、週末の彼女との会話は、ただのプロジェクトの打ち合わせではなかったことも認めざるを得ない。河野は自分の中に芽生えた感情に少し戸惑いながらも、それを否定することはできなかった。


「おはよう、河野くん」


振り返ると、鈴木が微笑みながら立っていた。週末とは違う、いつもの仕事モードの彼女だったが、その目には特別な親しみが宿っていた。


「おはようございます」河野は少し照れながら答えた。


「キャンペーンのアイデア、早速まとめてくれたのね」鈴木はデスクに広げられた資料を見た。


「はい、週末に考えたことを形にしてみました」


「素晴らしいわ」鈴木は満足そうに頷いた。「今日の午後、高橋部長と打ち合わせがあるの。その前にもう少し詳しく聞かせてもらえる?」


「もちろんです」


鈴木は少し声を落として言った。「日曜日の件も楽しみにしているわ」


彼女が去った後、河野は新たな決意を持って作業に戻った。キャンペーンにできるだけ本質的な価値を持たせるため、そして鈴木の思いに応えるために、最善を尽くそうと思った。


透明な壁の向こう側で、新たな可能性が開け始めているような気がした。

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