第4話 揺れる心

プロジェクト参加から一週間が経った金曜日の夕方、河野はデスクで資料を整理していた。この一週間は、通常業務に加えてプロジェクト関連の作業も増え、かなり忙しい日々を送っていた。

ロゴデザインのラフスケッチが数十枚、デスクに広がっている。河野はそれらを眺めながら、どのデザインがプロジェクトの本質を最もよく表現しているか考えていた。

「お疲れ様、河野くん」

鈴木の声に顔を上げると、彼女はコートを着て帰り支度をしていた。

「お疲れ様です」

「ずいぶん遅くまで残ってるのね」鈴木は河野のデスクに近づいてきた。「ああ、ロゴのデザイン案?」

「はい、来週のプレゼンに向けて最終調整中です」

鈴木は広げられたスケッチを眺め、一枚を手に取った。虹色のグラデーションを用いた洗練されたデザインだ。

「これ、素敵ね」鈴木は微笑んだ。「でも、あなたならもっと…何か違うアプローチもできそうね」

「違うアプローチ?」

「ええ」鈴木はスケッチを戻しながら言った。「虹色はもちろん象徴的だけど、少し定型的かもしれない。もっとあなたらしい視点があったら面白いと思うわ」

河野は少し考え込んだ。確かに、彼が描いた案の多くは、LGBTQ+関連でよく見られるデザイン要素を踏襲していた。それは無難だが、特別独創的というわけではない。

「あなたの考えを聞かせてもらえる?」鈴木は椅子に腰掛けた。「このプロジェクトについて、どう思ってる?」

突然の質問に、河野は少し戸惑った。これまでのところ、プロジェクトは順調に進んでいた。キックオフミーティングは成功し、コアメンバーの役割分担も決まった。表面上は、すべてが計画通りに進行している。

「正直に言うと」河野は慎重に言葉を選んだ。「まだ手探りの部分があります。このプロジェクトが目指す本当のゴールを、自分の中で明確にしきれていない感じです」

鈴木は真剣な表情で頷いた。「その正直さ、大切にしてほしいわ」

彼女はしばらく黙って考えた後、続けた。「河野くん、明日の午後、時間ある?プロジェクトのことで少し話したいことがあるの」

「はい、大丈夫です」

「じゃあ、明日の3時に会社の近くのカフェで会いましょう。オフィスを離れた方が、ゆっくり話せると思うの」

「わかりました」

鈴木は立ち上がり、笑顔で言った。「あまり遅くまで残らないでね。週末も大切よ」

彼女が去った後、河野はデスクに広がるスケッチを見つめた。「もっとあなたらしい視点」——鈴木の言葉が心に残る。彼女は何を期待しているのだろう。そもそも、「河野らしさ」とは何なのだろう。

自分のアイデンティティについて考えながら、河野は新しいスケッチを描き始めた。


翌日の午後3時、河野は約束通りカフェに到着した。洗練された内装のカフェは、週末ということもあり、比較的空いていた。窓際の席に鈴木の姿を見つけ、彼は近づいていった。

「お待たせしました」

「ちょうどいい時間よ」鈴木はコーヒーカップを持ちながら微笑んだ。「何か飲む?」

河野はカフェラテを注文し、席に着いた。鈴木はプライベートな服装で、普段のオフィスとは違う雰囲気だった。カジュアルだが洗練されたファッションは、彼女の美しさをより引き立てている。

「ここなら仕事の話も気兼ねなくできるわね」鈴木は言った。「オフィスだと、どうしても誰かの耳に入ってしまうから」

河野のラテが運ばれてきた。彼は一口飲み、温かい液体が体を温めるのを感じた。

「それで、どんなお話ですか?」

鈴木は少し表情を引き締めた。「プロジェクトの方向性について、少し懸念があるの」

「懸念?」河野は驚いた。「順調に進んでいると思っていましたが」

「表面上はね」鈴木は小さく頷いた。「でも、最近の経営陣とのミーティングで感じたのは、彼らがこのプロジェクトに求めているのは、主に会社のイメージアップなのではないかということ」

河野は黙って聞き続けた。

「私がこのプロジェクトを提案したとき、本当に目指していたのは、一人ひとりが自分らしくいられる環境づくりだったの」鈴木は真剣な表情で続けた。「でも、高橋部長たちが強調するのは、対外的な評価や数値目標ばかり」

「確かに、キックオフミーティングでも成功指標の話がありましたね」河野は思い出した。

「そう。もちろん、指標自体は必要だと思う。でも、本質を見失わないようにしなくちゃ」鈴木はコーヒーカップを両手で包むように持った。「だから、あなたの力が必要なの」

「私の力?」

「ええ。あなたは最初からこのプロジェクトに対して健全な距離感を持っていたでしょう?」鈴木は穏やかに微笑んだ。「その視点が、プロジェクトを本質的な方向に導く助けになるわ」

河野は驚いた。鈴木は彼の疑問や違和感を否定するどころか、それを価値あるものとして認めているのだ。

「正直に言うと」河野は自分の思いを整理しながら話し始めた。「このプロジェクトが単なるパフォーマンスになってしまうことを心配していました。多様性を尊重するというメッセージは素晴らしいのですが、それが表面的なスローガンに終わってしまうと…」

「その通りよ」鈴木は強く頷いた。「そして、もう一つ懸念していることがあるの」

彼女は少し声を落として続けた。「このプロジェクトが、逆に新たな分断を生み出してしまうかもしれないということ」

「分断?」

「ええ。『理解ある人』と『そうでない人』という区別が生まれてしまうことよ」鈴木は真剣な表情で言った。「私は自分のセクシュアリティをオープンにしたけど、それは個人の選択であって、すべての人に同じことを期待すべきではないと思う。多様性を尊重するなら、多様な立場や見方も尊重しなければならないはずでしょう?」

河野は鈴木の言葉に深く共感した。それは彼が感じていた違和感の核心だった。

「わかります。僕も同じことを考えていました」河野は率直に言った。「時々、このプロジェクトの周りには、『正しい反応』や『正しい立場』があるように感じることがあって…」

「そう、その通りよ」鈴木は嬉しそうに言った。「あなたと話せて本当に良かった。私も一人で悩んでいたから」

二人は互いの考えを共有しながら、プロジェクトをより包括的で本質的なものにするためのアイデアを話し合った。河野は自分のデザイン案についても話し、鈴木からフィードバックをもらった。

会話が進むにつれ、河野は鈴木に対する見方が少し変わっていくのを感じた。彼女は単に会社の方針に従っているのではなく、自分なりの信念と葛藤を持ちながら、このプロジェクトに取り組んでいたのだ。

「あのね、河野くん」鈴木は少し恥ずかしそうに言った。「実は、このプロジェクトを始める前、カミングアウトする前、とても怖かったの」

「怖かった?」

「ええ」鈴木は窓の外を見つめた。「自分のセクシュアリティを公表することで、周囲の目が変わるんじゃないか、これまで築いてきた関係が壊れるんじゃないかって」

河野は黙って聞いていた。

「でも同時に、隠し続けることにも疲れていたの」鈴木は続けた。「だから、このプロジェクトは私自身にとっても大きな意味があるの。でも、そのせいで他の人に不自由さや圧力を感じさせるようなことになれば、本末転倒よね」

「鈴木さんの気持ち、よくわかります」河野は真摯に言った。「そして、このプロジェクトが真に意義あるものになるよう、僕も全力を尽くします」

鈴木は心から安心したような笑顔を見せた。「ありがとう。この話ができて本当に良かった」

二人はカフェを出て、夕暮れの街を少し歩いた。仕事の話からプライベートな話題へと会話は移り、河野は鈴木のこれまで知らなかった一面を知ることができた。彼女の趣味や価値観、そして彼女が歩んできた道のりについて。

別れ際、鈴木は河野の腕に軽く触れた。「月曜日、新しいデザイン案を楽しみにしているわ」

「はい、頑張ります」

鈴木が去った後、河野は帰り道を歩きながら考えた。今日の会話は、彼の中の違和感を完全に解消したわけではない。しかし、鈴木もまた同じような疑問を抱えていること、そして彼女なりの誠実さを持ってプロジェクトに向き合っていることを知り、少し安心した。

彼はスマホを取り出し、新しいデザインのアイデアをメモし始めた。


日曜日の午後、河野はアパートの机に向かい、新しいロゴデザインに取り組んでいた。昨日の鈴木との会話から、彼の中でアイデアが明確になってきていた。

標準的な虹色のグラデーションではなく、もっと微妙な色合いと形を使った抽象的なデザイン。多様性を象徴しながらも、固定的なイメージに縛られないもの。彼は何度もスケッチを描き直し、デジタル作業へと移行した。

作業の合間に、河野のスマホが鳴った。田中からの電話だった。

「もしもし、どうしたの?」

「おう、河野!」田中の元気な声が響いた。「今、何してる?」

「ロゴのデザイン作業中だよ」

「マジか、日曜日なのに仕事かよ」田中は笑った。「でも俺も同じだ。プロジェクトのコピー考えてたところなんだ」

二人は少しプロジェクトの進捗状況について話した後、田中が話題を変えた。

「そういえば、昨日鈴木さんと会ったって?」

「うん、カフェで少し打ち合わせをしたんだ」河野は答えた。

「へえ、土曜日に二人きりか」田中の声には含みがあった。「なんか進展あった?」

「進展って…仕事の話だよ」河野は少し困惑した。

「まあまあ、冗談だって」田中は笑った。「でも、鈴木さん、最近お前のこと気にかけてるよな。特別扱いしてる感じがする」

河野は考え込んだ。確かに、鈴木は彼に対して信頼を寄せているようだった。しかし、それは彼のデザインスキルや視点を評価してのことだろう。

「仕事上の信頼関係だよ」河野はそう言ったが、心の中では少し複雑な感情があった。

「まあ、そうかもな」田中は納得したようだった。「ところで、明日のミーティング、緊張するぜ。経営陣も来るらしいし」

「そうなんだ。知らなかった」

「おい、聞いてなかったのか?高橋部長からメールあっただろ」

河野は慌ててパソコンのメールをチェックした。確かに、金曜日の夜に高橋から全メンバーへのメールが来ていた。明日のミーティングには、社長も参加するという内容だった。

「見落としてた…」河野は少し焦った。

「大丈夫か?」田中は心配そうに言った。「まあ、お前のデザインなら問題ないだろうけど」

電話を切った後、河野はより一層集中してデザイン作業に取り組んだ。社長の前でのプレゼンテーションとなれば、完璧な準備が必要だ。

しかし、作業を進めるうちに、新たな不安が湧いてきた。本当にこのデザインで良いのだろうか。鈴木が言った「あなたらしさ」を表現できているだろうか。そもそも「河野らしさ」とは何なのか。

夕方になり、河野は完成したデザイン案をじっと見つめていた。それは彼がこれまで作った中で最も個人的で、かつ深い意味を込めたデザインだった。虹色の典型的な表現を避け、代わりに透明感のある層が重なり合い、見る角度によって様々な色彩を映し出す、繊細なデザイン。

そこには「多様性」の象徴だけでなく、「透明な壁」や「見えない結びつき」というメタファーも込められていた。鈴木との会話や、彼自身の感じてきた違和感から生まれたデザインだった。

河野はデザインデータを保存し、明日のプレゼン用の資料を準備した。果たして、このデザインは受け入れられるだろうか。そして、それは本当に彼の信じる方向性を示せているだろうか。

彼はデスクに置かれた写真立てを見た。大学時代の友人たちとの思い出の一枚。皆、笑顔で肩を組んでいる。「多様性」や「包括性」という言葉が頻繁に使われる前から、彼らは互いの違いを受け入れ、尊重してきたはずだ。

そのシンプルな事実が、今の複雑な状況の中で、何か大切なことを示しているような気がした。


月曜日の朝、オフィスはいつも以上に活気に満ちていた。プロジェクトミーティングに社長が参加するという知らせが、関係者以外にも広まっていたようだ。

河野がデスクに向かうと、すぐに田中が駆け寄ってきた。

「おはよう!準備はOK?」

「ああ、なんとか」河野は少し緊張した様子で答えた。

「俺のコピーも仕上がったぜ」田中は自信満々に言った。「鈴木さんにも見てもらったけど、かなり良い反応だったよ」

「そうか、それは良かったね」

「お前のデザインも見せてよ」

河野はパソコンを開き、完成したロゴデザインを田中に見せた。

「おお…」田中は少し驚いた表情を見せた。「これ、すごいな。でも…ちょっと分かりにくくない?」

「どういう意味?」

「いや、デザインとしては素晴らしいんだけど」田中は言葉を選びながら言った。「普通のLGBTQ+のロゴって、もっとわかりやすく虹色を使ったりするじゃん。これ、一般の人が見て、すぐにダイバーシティのシンボルだって分かるかな?」

河野は黙ってデザインを見つめた。田中の指摘は的確だった。彼のデザインは確かに典型的なLGBTQ+シンボルからは外れている。それは意図的なものだったが、果たして他の人々、特に経営陣にその意図が伝わるだろうか。

「まあ、気にするなよ」田中は河野の肩を叩いた。「お前のセンスなら大丈夫だって。それに、鈴木さんも支持してくれるだろ」

その時、鈴木が近づいてきた。「おはよう、二人とも。今日の準備はできてる?」

「はい」河野と田中は同時に答えた。

「河野くん、デザイン案を見せてもらえる?」

河野は少し緊張しながらも、パソコンの画面を鈴木に向けた。彼女はしばらくデザインを見つめ、徐々に笑顔が広がっていった。

「素晴らしいわ」鈴木は心から感動したように言った。「これこそ、私が求めていたデザインよ」

「本当ですか?」河野は安堵した。

「ええ、従来の象徴的な表現を超えて、もっと深い意味を持たせているわね」鈴木はデザインの細部を指さした。「この透明感のある層の重なり、見る角度によって変化する色彩…まるで人々の関係性や視点の多様性を表しているみたい」

河野は驚いた。鈴木は彼の意図を完璧に理解していた。

「ただ…」鈴木は少し表情を変えた。「高橋部長たちには、もう少し説明が必要かもしれないわね」

「やっぱり分かりにくいでしょうか?」

「いいえ、むしろ深すぎるのよ」鈴木は微笑んだ。「でも心配しないで。私がフォローするから」

「ありがとうございます」

「それじゃ、今日のミーティングで頑張りましょう」鈴木は二人に頷き、自分のデスクに向かった。

彼女が去った後、田中が河野に小声で言った。「な、言ったとおりだろ?鈴木さん、お前のこと絶対気に入ってるよ」

河野は何も答えなかったが、鈴木の反応に少し安心していた。少なくとも、彼女は彼のデザインの意図を正確に汲み取ってくれた。しかし、他のメンバーや経営陣の反応はどうだろう。


午後2時、大会議室には緊張感が漂っていた。プロジェクトのコアメンバー10名に加え、高橋部長、さらに社長の中村と専務の佐々木も出席していた。

高橋の簡単な挨拶の後、鈴木がプロジェクトの進捗状況について報告した。続いて、各メンバーが担当部分のプレゼンテーションを行った。

田中のコピーライティングと情報発信戦略の提案は、出席者から好評を博した。特に「Be Yourself, Respect Others」というシンプルながら力強いスローガンは、社長からも称賛の言葉を得た。

そして、河野の番が来た。

「では次に、プロジェクトのビジュアルアイデンティティについて、デザイナーの河野から説明します」鈴木が紹介した。

河野は深呼吸をして立ち上がり、プロジェクターに自分のデザインを映し出した。

「こちらが、当プロジェクトのロゴデザイン案です」

会議室に静寂が流れた。出席者たちは、スクリーンに映されたデザインを真剣な表情で見つめていた。

「このデザインでは、従来のLGBTQ+シンボルでよく使われる虹色のストレートな表現ではなく、より繊細で多層的な表現を試みました」河野は少し緊張しながらも、自分の意図を説明し始めた。

「透明感のある層が重なり合うことで、見る角度や光の当たり方によって、様々な色彩や形が現れます。これは、多様性が単に目に見える特徴だけでなく、一人ひとりの内面や視点の違いにも存在することを表現しています」

河野は一度、鈴木を見た。彼女は小さく頷き、続けるよう促した。

「また、透明な層というモチーフには、私たちの間に存在する『見えない壁』や『繋がり』という意味も込めています。多様性を尊重するということは、表面的な違いを認めるだけでなく、それぞれの内面や背景を理解し、真の対話を生み出すことではないかと考えました」

プレゼンテーションが進むにつれ、河野は次第に自信を持って話せるようになった。このデザインには、彼自身の思いや考えが込められていた。それは単なる仕事ではなく、彼の信念の表現でもあった。

説明が終わると、再び静寂が訪れた。高橋部長が最初に口を開いた。

「興味深いデザインですね」彼は慎重に言葉を選んでいるようだった。「ただ、少し…抽象的すぎるかもしれません。当社のプロジェクトが『LGBTQ+支援』であることが、一目で伝わるでしょうか?」

河野が答えようとしたとき、鈴木が発言した。

「それこそがこのデザインの狙いだと思います」彼女は落ち着いた声で言った。「私たちのプロジェクトは、単にLGBTQ+カテゴリーに当てはまる人々を『支援する』というだけでなく、すべての社員が自分らしくいられる環境を目指しています。このデザインは、そうした包括的なビジョンを表現していると思います」

社長の中村が前かがみになった。「確かに従来の表現とは異なりますね。しかし、だからこそ他社との差別化になる可能性もあります」

専務の佐々木は眉をひそめていた。「私は正直、もう少し明確なメッセージ性が必要だと思います。社外に発信する際、このデザインだけでは当社の立場が伝わらないのではないでしょうか」

議論は白熱し、賛否両論が飛び交った。河野は黙って聞いていたが、内心では複雑な思いがあった。彼のデザインが議論を呼んでいること自体は、ある意味で成功だったかもしれない。それは人々に考えさせるデザインだったのだから。

最終的に、社長が発言した。「両方の意見に理解できる点があります。河野さんのデザインコンセプトは素晴らしいと思いますが、もう少し当社のメッセージが明確に伝わるよう、調整の余地はあるかもしれません」

高橋部長が提案した。「河野さん、現在のコンセプトを活かしつつ、もう少し分かりやすい要素を加えた代替案も作成していただけますか?」

「はい、承知しました」河野は頷いた。

ミーティングはその後も続き、他のトピックについても議論された。社長は全体的に満足している様子で、プロジェクトの進捗を称賛した。

終了時間が近づくと、鈴木が最後の発言を求めた。

「このプロジェクトの本質は、単に世間の評価を得ることではなく、真の意味での包括的な環境を作ることだと思います。そのためには、時に従来の枠組みや表現を超えた挑戦も必要ではないでしょうか」

彼女の言葉は、特に河野に向けられているようだった。

社長は深く頷いた。「その通りです、鈴木さん。我々は単にトレンドに乗るのではなく、本質的な変化を目指すべきです。ただし、それを効果的に伝えるための工夫も必要です」

ミーティングが終わり、参加者たちが退室する中、河野はデザイン案を片付けていた。

「すごく良かったわよ」鈴木が近づいてきた。「あなたのデザインは本当に深い意味を持っている」

「ありがとうございます」河野は微笑んだ。「でも、やはり調整は必要ですね」

「そうね、でも本質は失わないで」鈴木は真剣な表情で言った。「このプロジェクトには、あなたのような視点が必要なの」

河野が何か言おうとしたとき、高橋部長が近づいてきた。

「河野さん、今日のプレゼンテーション、興味深かったですよ」彼は笑顔で言った。「ただ、次回は当社のブランディング戦略にもう少し沿った形で提案していただけると助かります」

「はい、検討します」

高橋が去った後、河野と鈴木は二人きりになった。


「大丈夫よ」鈴木は励ますように言った。「高橋部長は基本的にはプロジェクトを支持してくれているわ。ただ、会社の立場もあるから、バランスを取ろうとしているだけ」


「わかってます」河野は頷いた。「僕も次のバージョンで調整してみます」


鈴木は少し迷うような表情を見せた後、小声で言った。「実はね、河野くん。私、あなたのデザインがとても気に入ったの。それは私たちがこの間カフェで話したことを完璧に表現していて…」


彼女は一度言葉を切り、周囲を見回してから続けた。「もし良ければ、今日の夕方、もう少し詳しく話せないかしら?このプロジェクトの本当の方向性について」


河野は少し驚いたが、頷いた。「はい、大丈夫です」


「ありがとう。では、6時に会社の近くのレストランで。プライベートな場所の方が話しやすいから」


鈴木が会議室を去った後、田中が河野に近づいてきた。


「お疲れ!すごい議論になったな」


「うん、まあね」河野は疲れた表情で答えた。


「でも、鈴木さんがしっかりフォローしてくれたじゃないか」田中はニヤリと笑った。「やっぱり特別扱いだぜ」


「そんなことないよ」河野は苦笑いした。「彼女はプロジェクトリーダーとして、メンバーをサポートしてるだけだよ」


「そうかな?」田中は意味深な顔をした。「今日の夕方も会うんだろ?」


「え?どうして知ってるの?」


「たまたま聞こえちゃったよ」田中は肩をすくめた。「まあ、頑張れよ。応援してるぜ」


河野は何か言い返そうとしたが、やめた。田中の誤解を解くより、今は自分のデザイン案の修正について考えたかった。


---


その日の夕方6時、河野は鈴木と待ち合わせたレストランに到着した。洗練された雰囲気の小さなイタリアンで、ビジネス街にありながらも落ち着いた空間だった。


鈴木はすでに窓際の席で待っていた。河野が近づくと、彼女は優しく微笑んだ。


「お待たせしました」


「いいえ、ちょうど着いたところよ」鈴木はグラスワインを前に座っていた。「何か飲む?」


河野もワインを注文し、席に着いた。鈴木は仕事モードとは違う、リラックスした様子だった。


「今日のミーティング、大変だったわね」鈴木は言った。「でも、あなたのデザインは本当に素晴らしかった」


「ありがとうございます」河野は少し照れた。「でも、やはり伝わりにくかったみたいですね」


「いいえ、伝わったわ」鈴木は真剣な表情で言った。「特に大切な人には」


二人はしばらく仕事の話をしていたが、料理が運ばれてくると、鈴木は少し話題を変えた。


「河野くん、あなたはなぜデザイナーになったの?」


突然の質問に、河野は少し考え込んだ。「それは…物事を視覚的に表現することが好きだったからかな。言葉では伝えきれないことも、デザインなら表現できることがあると思って」


「素敵な理由ね」鈴木は微笑んだ。「私がマーケティングの道に進んだのも、少し似ているかも。人の心に響くメッセージを作りたかったから」


会話は自然と互いの過去や価値観へと移っていった。河野は鈴木が大学時代に演劇サークルに所属していたことや、社会問題に関心を持つようになった経緯を知った。鈴木も河野の学生時代の話や家族のことに興味を示した。


食事が進み、二杯目のワインを前にして、鈴木はようやく本題に入った。


「実は今日、あなたに話したかったのは」彼女は少し声を落とした。「このプロジェクトの行方について、私が感じている懸念よ」


「懸念?」


「ええ」鈴木は真剣な表情になった。「高橋部長たちは基本的には良い人たちだし、プロジェクトも支持してくれている。でも、彼らの関心はどうしても会社の評判や数字に向いていて…」


「本質を見失う危険性があると」河野は鈴木の言葉を補った。


「そう、まさにそれ」鈴木は嬉しそうに頷いた。「だからこそ、あなたのようなデザイナーの視点が必要なの。形だけのダイバーシティではなく、本当の意味での多様性と包括性を目指すために」


河野は黙って聞いていた。鈴木の言葉には誠実さが感じられた。


「あなたのデザインは、まさにそれを表現していた」鈴木は続けた。「透明な層が重なり合い、新しい色彩を生み出す。それは多様な視点や価値観が交わることで生まれる豊かさの隠喩でもある」


「そうですね、そういう意図もありました」河野は自分のデザインについて語った。「ただ、それが皆に伝わらなかったのは、やはり私の表現力不足だったのかも」


「いいえ」鈴木はきっぱりと言った。「問題は受け手の側よ。多くの人は既存の枠組みでしか物事を見られないの。だからこそ、このプロジェクトが必要なのよ」


二人はプロジェクトの理念や方向性について、さらに深く話し合った。鈴木の言葉には熱意があり、河野も次第に彼女の思いに共感していった。


「次のデザイン案については」鈴木は実用的な話題に戻った。「コンセプトを損なわずに、もう少し分かりやすい要素を加えることはできるかしら?」


「はい、いくつかアイデアがあります」河野は答えた。「透明感と層の重なりは残しつつ、もう少し従来の象徴的な色使いを取り入れることで、バランスを取れると思います」


「それは素晴らしいわ」鈴木は満足そうに言った。「あなたなら、きっといい解決策を見つけられるわ」


食事が終わり、二人はレストランを出た。初夏の夜風が心地よく、東京の街はネオンに彩られていた。


「送りましょうか?」河野は申し出た。


「ありがとう、でも大丈夫」鈴木は微笑んだ。「この辺りは明るいし、駅まで近いから」


別れ際、鈴木は河野の腕に軽く触れた。「今日は本当にありがとう。あなたと話せて、私も勇気づけられたわ」


「こちらこそです」河野は心から言った。「鈴木さんのおかげで、プロジェクトの本質がより明確になりました」


鈴木は少し照れたように笑い、「明日、オフィスで」と言って去っていった。河野は彼女の後ろ姿を見送りながら、複雑な思いを抱いていた。


---


帰り道、河野は今日の出来事を振り返っていた。ミーティングでの議論、そして鈴木との夕食。彼女の熱意と誠実さは間違いなく本物だった。しかし、それでも河野の中には、完全には晴れない違和感があった。


駅のホームで電車を待ちながら、河野はふとスマホを取り出した。何気なく会社の公式SNSをチェックすると、今日のミーティングの写真が投稿されていた。「ダイバーシティ&インクルージョン推進プロジェクト進行中!」というキャプションとともに。


河野は写真をじっと見つめた。それは確かに前向きなメッセージだが、どこか作られた感じがする。本当の「多様性」とは何なのか。それは単にカテゴリーや属性の多様さだけなのだろうか。


電車に乗り込み、混雑した車内で立っていると、河野のスマホが振動した。メールだ。送信者を見ると、佐藤真由子からだった。


「河野さん、明日の昼休み、少しお話しできますか?プロジェクトについて聞きたいことがあります。」


河野は少し驚いた。佐藤はプロジェクトに参加していないはずだ。なぜ今、彼に連絡してきたのだろう。


「承知しました。社内カフェでお会いしましょうか?」と返信を送った。


佐藤からの返信はすぐに来た。「ありがとう。でも、できれば会社の外で。プライバシーが必要なので。」


河野は眉をひそめた。佐藤の要請には何か特別な理由がありそうだ。「わかりました。近くの公園はいかがですか?」と提案した。


「良いですね。12時半に正門前で。」


やり取りを終え、河野は窓の外の夜景を見つめた。佐藤が何を話したいのか、想像がつかない。しかし、彼女はこれまでも鋭い洞察を持っていた。明日の会話が、彼の中の違和感に何か新たな視点をもたらしてくれるかもしれない。


アパートに帰り着いた河野は、デスクに向かい、新しいデザイン案のスケッチを始めた。透明感と重なりのコンセプトを残しつつ、より分かりやすい要素を加える。それは簡単なことではなかったが、鈴木との会話が彼にインスピレーションを与えていた。


スケッチを描きながら、河野は自分自身についても考えていた。彼は本当は何を信じているのか。このプロジェクトに対する自分の立場は何なのか。そして、鈴木美咲という人物に対する複雑な感情は…。


夜が更けていく中、河野のデスクの上には、様々なデザイン案が散らばっていた。そのどれもが、彼の中の葛藤と希望を映し出しているようだった。

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