【2-13k】司教は言った「それは奇跡じゃない」

 辺境の外壁には、都市の皮膚のような階層があった。

 かつては人間が登るための構造ではなかったそれを、今は配達員たちが交互に降り、登っている。ロープと金属の杭を使い、重力に身を委ねながら。


「よし、今だ。ビレイ、解除。降りろ、ケン」

 ステの声にうながされて、ぼくは腰のロープをつかんで下をのぞきこんだ。高級層──白い壁の向こうには、まだ人間の暮らしがある。あたたかい、誰かの暮らしが。


 足を滑らせたとき、一瞬だけ胃が浮いた。でもロープが背を支えてくれた。

 安心だった。万が一があっても、ステが支えてくれる。

 何度か繰り返すうちに、降りることにも慣れてきた。




 これが、ぼくたちの日常になっていた。


 ──宅食配達員。


 ステがやっているのは、人工精霊よりも安く請け負える人力の配達業だった。ときにビルの上から、風に煽られながらぶらさがって。ときに地上の層から、ぬかるんだ配送レーンを走って。


 ぼくは、手伝うことになった。

 きっかけは、ステの「金かして」だった。


「いや、ないよ。お金なんて……」


 配達のための道具を追加注文した結果、ステの手持ちはすっからかんになっていたらしい。現金を持っていないと、「お釣りが出せない」と低評価をつけられるらしく、それが一大事だと真顔で語られた。


「でも、謝ってちゃんと『またきます』って言えばいいんじゃない?」

 そう提案して、実際にやってみたところ──お釣りは預かり制になり、意外とうまくいった。


 だが、数回働いたあと。

 ステの端末に、冷たい表示が浮かんだ。


マイナス3090オカネを振り込んでください。


「……なんで?」

「店の取り分と、サービス料。ほら、これ」


 説明によれば、働いて得た報酬の六割以上が“サービスの使用料”として持っていかれているらしい。配達すればするほど、損をしていくような気分だった。

 けれど、現金が手元にいくらか残った。

 食事もできたし、安宿に泊まることもできた。


 狭くて冷たいが、シャワーが使えた。なんと朗読機でいろんな物語を読んでくれた、漫画喫茶みたいなものだろうか?


 二人で寝るにはぎゅうぎゅうだが、悪くなかった。


「よし、次は……これだな」


 ステが新しい配達リストを確認しながら、ぽん、とぼくの背中を叩いた。


 ──イザにあげたバッグの代わりに、ぼくは新しい鞄を買う必要があった。

 ステは最初、保冷付きの安価なモデルを選びかけたぼくを止め、少し高価なリュックを選んだ。


「これ、保冷効果はないけど。このシート、巻いて使えば寒さもしのげる。背負えるタイプのほうがいい。旅にも使えるから」

「旅……?」


 ぼくが聞き返すと、ステは曖昧に笑った。


「ケンは、ずっとこの仕事しないだろ。……そのうち、旅に出るさ」


「そんな気がする……」

 少し考えて、ぼくは答えた。


「そのときは、一緒に行こう」


 ステは、それには何も言わなかった。


 配達の日々は、単調だった。運ぶ、届ける、下りる、登る。疲れたら眠る。腹が減ったら食べる。


 当たり前なんだろう、ここの誰もが受け入れてること。でも、ぼくにはまったく理解できなかった。

 そんなありふれた疑問を、ステに尋ねた。


「ねえ、夜って……来ないの?」


 ステは不思議そうな顔をした。


「イザのねーちゃんもそんなこと言ってたな、なんだ夜って?」


「なにって……真っ暗になるんだよ。時間が来ると。ほら、深いところに届けたときみたいに、暗いんだよ。もっと真っ暗」


 あらためて、夜を説明したことがないぼくが、夜を知らない人に説明するのは難しかった。


 ぼくのいた世界の簡単な説明をした。太陽があって、まわってて。光が当たる方向と当たらない方向がある。そういう感じで、と。


「あ~なるほど?光が当たらない場所ってことか?暗くなっても聖樹が通ってる場所は明るいし、全く光がないって場所はねぇなぁ」


「それに時間がないよね、秒にあたるのは“拍”とかあるけど、それも『配達指定まであと60カウント』とかだしさ。三時間くらいが一周期ってされてるけど、これ、ご飯食べる周期じゃない?」


「まぁそんな感じだな。市民さまの基準だ。もっとも、市民さまはそのときに“納税”する周期だけどな」


「トイレも時間決まってるんだ……」


 ぼくらはどうしてるかというと……まあそれは……三周期に一回の間隔で雨が降るのも、そういった“穢れ”を洗い流すためらしい。ほんと、雨ばかりだよ。夕立みたいなのが予報通りに降る。そのときは配達料が上がるから、稼ぎ時ではあるんだけどね。


 そしてステは続けた。


「時間ねぇ……逆に聞くけど、ケンらのとこは“太陽”とやらがあって、それで一時間とかいう時間の間隔ができたんだろ? なんで太陽が沈まないこの国で“時間”があると思った?」


 ぼくはうまく答えられなかった。


「ケンのいうところの……この太陽は、祝福だからなぁ。魔法の祝福。女王様の魔法の一つ、たしか三文字だったぜ?」


 ステは空を指さした。


「樹の上、あれが祝福。そしてそれを受けてるのが葉だよ。光導管っていって、ほとんど透明で見えないけど、太陽をずらっと何層も囲んでる。余すことなく受けられるようにな。まあ、俺らの眼じゃ見えない粒だか波だかで通ってるらしいけどな」


 確かに見えなかった。たまにプリズムのように線で光るだけだった。


 ステは続けた。そして見えない葉から指をなぞり、その下の分岐された枝を示す。


「大きな幹は12本あった。いまは一本欠けてるそうだ。光る幹や枝は、集中してる場所だ。辺境まで届いてるけど、薄くてほとんど見えない。……そこが“魔法圏”だ」


 地の下にも同じ仕組みがあるらしい。人間の暮らしで出た“穢れ”は、根を通って地下深くへ。もうひとつの太陽──月のようなもの──で分解され、再び天へと送られていく。


「つまり、閉じた世界ってわけ」


 ぼくは息をのんだ。


「太陽は、落ちない。だから夜も、来ない。昨日と同じ今日があるだけ」


「……じゃあ、どうやって時間を測ってるの?」


 ステはポケットから、小さな鎖のついたコンパクトを取り出して、ぼくに投げた。


 くすんだ金属のカバーには、何かの刻印がある。


「相対時間でいいんだよ。ほら、やるよ」

「えっ」

「気にすんな、ガラクタだよ。この世界じゃな」


 それは時計だった。12時で一周するタイプ。つまりは、ぼくの知ってるアナログ時計と同じだった。


「いまじゃオーグや俺らの持ってるノアで時間みるからな。こういうおもちゃはもう誰も使ってねぇ」


 そう言って、色違いの時計を見せる。

「俺のは、これ」


「こうして、時間をお互いに合わせておく……」


 今が世界の何時かはわからない。でも、お互いの長針も短針も12に合わせて0にする。

 そして同時に、上のリューズを押し込んだ。そうすると、同じ時間が流れていく。


 時を刻む針の音が、少しだけあたたかかった。


「自動巻きってぇの?持ってる奴が動いてれば、ほとんど永久的に動くんだそうな。すげぇよな」


 ステが笑った。


 ──ぼくも、笑った。


















…止まった。ステの時計。銀色の時計が止まった。


「え?ステこれ壊れてるんじゃ…」


そう、言い終わる前にステは前のめりに倒れる。


ドサっ… 頭から。受け身を取らずに



周囲の景色、全てが灰色になったような感覚。遠くの遠くの雲も、透明な葉のきらめきも、風もすべてが灰色… で、止まっている。


「時間停止って能力さぁ…だいたい最強能力だよねwww?」


後ろから、声がする…


「それで、開発してみたんだけどwww」


淡々と声は続く


「揉んだりしようとしてもさぁ、硬いだろうし、そもそも空気が動かないからその場で固定されちゃってさ、死ぬかとおもったぜ… ま、死んだwwwんwwwだwwwけwwwどwww」


「だから、これは廉価版www やぁやぁ初めまして 大賢者さまwwwだよ!」


振り向くと、そいつは笑っていた。


──笑っていた。ヘラヘラと、どこまでも軽く。


両手を広げ、まるで演劇のカーテンコールのようにおどけてみせる。


「出オチじゃないから安心して!チュートリアルはおしまい?……いや、むしろここからが本番?」


 口元は笑っている。目元も笑っている。けれど、それぞれが別の理由で笑っているように見えた。


「死んだけどwww生き返ったwwwってことにすればwwwなんでもアリじゃね?って思ったんだよねー!」


 ひとつひとつの言葉が、笑い声の断片のように、弾けて、こぼれて、地面に転がる。


 



 なのに、次の瞬間、ぴたりと笑いを止めた。


 顔だけを、ねじくれたようにこちらに向けて。


「──じゃあケン、キミの役目を伝えよう」


 あれほど騒がしかった空間に、突然、凍ったような沈黙が落ちた。

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