木の芽時の恋

諏訪野 滋

木の芽時の恋

 生理痛がきついので、と理由をつけて毎日早退するから、じゃあ今すぐここで脱いで見せてよ、と言ってみた。そうしたら相良さがらさんは、すいませんウソでした、と悪びれた様子もなく舌を出した。

「私、もうずいぶん生理来てないんです。薬のせいかな、って自分では思っているんですけれど」

 高校の廊下で始業前に扱う話題としてはふさわしくないな、と私は声を落とした。使った経験がない私よりも、ピルについてはいまどきの子の方が詳しいに違いない。

「薬、って」

「ああ先生、勘違いしないでください。抗不安薬、とかいうやつの副作用にそんなのがあるらしいんですよ」

 してやったりといった表情の相良さんに、私は少しむくれた。しかし、ピアスを開けていたり少し派手だからといって、色眼鏡で見てしまった私の落ち度でもある。

「私、中学の頃から夜が全然眠れなくて。一時期は良かったんですけれど、春になるといつもひどくなるんですよね。季節性のうつ、なんてクリニックの先生には言われているんですが」

 似たような話は私も聞いたことがあった。三月から四月にかけてのこの時期は木の芽時といって、気候の変動や生活環境の変化により心身の不調をきたしやすいとされているらしい。実際に自殺する人の数も、やはり春が一番多いのだという。それでも入学式から二週間も早退が続けば、クラス担任の私も何か言っておかなければいけないような気がした。

「生理の話はともかく、それじゃずる休みじゃない。友達作ったりとかそういうの、最初が肝心だよ?」

「でも授業に出ても、私って寝てばかりじゃないですか。先生たちに申し訳なくて」

「いや、こちらとしては休まれる方が……」

 私の身勝手さを見透かしたように、相良さんはうっすらと笑った。休まれたらどうだというの、とでも言いたげに。それはそう、自分が困るからという保身で彼女を引き留めているのは否定しない。しかし心のどこかに、仕事のためだけにこんな面倒なことをするわけないじゃない、という言い訳じみた未練も確かにあった。

 それじゃ、ときびすを返そうとした彼女の左手首を思わずつかんだ私は、滑らかさを欠いた不自然な感触に驚いて手を引く。赤黒くわずかに盛り上がった、横走する数本の線条。相良さんは慌てる風もなくブラウスの袖口を引き下げると、仕返しのように私の耳元にささやいた。

「先生、お酒臭いですよ。私くらいしか分からないかもしれませんが、気を付けて」

 そんなに、と両手を口元に持って行った私に、彼女は憐れむような笑顔を向けた。

「お母さんと同じ匂いがしたから」

 独り教室に戻った私は、ホームルームを急いで切り上げるとトイレの個室に逃げ込んだ。口の中に指を突っ込んでも胃液が流れ出てくるばかりで、すでに血肉の中に溶け込んでいるアルコールが抜けるはずもない。それでも私は、彼女に見せてしまった脆弱な部分を自分の中からえぐり取ろうとやっきになる。幸いにも、目の前にある光沢を失った便器が、鼻先から垂れる私の自己嫌悪を全て受け止めてくれた。


 土曜日の午後。下校時間をとうに過ぎて生徒の姿もまばらになった校門を抜けると、私は河川敷を眼下に望む土手の上を歩いて行った。奥の高台はちょっとした公園になっていて、花をずいぶんと落とした桜が並木道沿いに続いている。満開の時期は過ぎているにもかかわらず、昼下がりの陽気に誘われた多くの家族連れが、散乱した花びらのように思い思いに散策を楽しんでいた。彼らを避けようとして道端に堆積した花だまりに時折足を取られながら、私は携帯の地図案内に目を落とした。

 相良さんは、母親と二人きりでアパートに住んでいるらしい。彼女が母子家庭であることは、奨学金の申請書とともに提出された住民票で知った。家庭訪問はかえってトラブルになる、と先輩の教師は私に忠告したが、自宅電話が設置されておらず母親の携帯もいつも留守録になっているとあれば、こうするよりほかに仕方なかった。本人にも母親にも会えるという保証はなかったが、相良さんが生活している周囲の雰囲気や環境を知ることができると想像することは、隣人の睦言むつごとを壁ごしに盗み聴くような密かな胸の高まりがあった。

 緩やかなカーブを抜けた私は、歩道沿いのベンチに座っている女子生徒に目を留めた。うちの学校の制服だ。背もたれに身体を預けて足を投げ出し、顔を深く地面に向けている。足早に近づくにつれて、それが彼女かもという疑念は確信に変わった。だらりと垂れた手首に残る、リストカットの痕。

「相良……さん?」

 かがんで顔を覗き込むと、彼女は半開きの口から糸を引いて眠り込んでいた。反応のない身体を揺さぶってみても、ぐらんと首が傾くばかりで目を開ける気配もない。とっさに私の脳裏に浮かんだのは、生理を止めるほどの薬量。

「ちょっと。相良さん、しっかりして!」

 救急車を呼ぶべきだろうか? ベンチの周囲を見渡してみたが、安定剤の包装シートが散らばっている様子はない。それにしても、まさかこんな真昼の公園で。

 ちり、とまつげが震えた。胸を押さえて見守る私の前で相良さんは薄目を開けると、とろけたような笑顔で私を見上げた。

「どうしたんですか先生、顔真っ青ですよ。またお酒の飲みすぎ?」

 私は膝に力が入らなくなるのを感じて、彼女の隣にくたりと座り込んだ。

「もう、心配したんだから。相良さんこそ、薬を馬鹿飲みしたんじゃないかって」

 あは、と声を上げた彼女は、甘えるように私の肩に頭を乗せた。

「オーバードーズなら、もうしませんよ。去年それで入院したらやばい奴認定されて、彼氏も友達もみんな私の周りからいなくなっちゃいましたから。それに」

 寝起きの相良さんは熱がこもった息を吐き出すと、目の前を横切る花びらの隙間から虚空を見上げた。

「あれって、私が本当にしたいことじゃなかった」

 彼女の告白に、私は愛おしさが募った。今は春、心の闇が深くなる季節であるはずなのに、相良さんはもう一人の自分とせめぎあいながら、這いずるようにして学校に来ていた。傷を抱えながら、ぎりぎりのところで踏みとどまって。

「ねえ、相良さん」

「はい?」

「痛いはずなのに、どうして手首を切ったりするの?」

 痛くないリスカなんて意味ある? と不満そうにしていた彼女は、鼻をひくつかせるといたずらっぽく笑った。

「またお酒の匂いがしますね。それじゃ逆に聞きますけれど、後悔すると分かっているのに、先生はどうしてお酒を飲むんですか?」

「……やめられないのよ」

「そういう事ですよ。やめるには死んじゃうしかないんだから、生きていれば仕方なくやっちゃうじゃないですか」

 その言葉にどこかで安堵している自分がいた。どこにも放つことのできない生きたいという叫びを、彼女は痛みに変えているだけだった。強烈なシンパシー。私だって生きていたい、独りだけで朽ちていきたくない。手遅れにならないうちに、苦しみが最終的な解決を求め始めるその前に……

 ひらり、とカバンの上に花びらが落ちたのを見て、今さら隠す必要もないなと思った私は、中からステンレス製のスキットルを取り出して彼女に振ってみせた。ちゃぷり、と澄んだ音が春風に流れる。

「ごめんね、駄目な大人で」

 ふたを開けた途端に、相良さんは鼻にしわを寄せて顔を背けた。

「わ。なに」

「ウイスキー。この時期になると、花見酒としていつも持ってる」

 私は枝に残っている桜の花を見上げると、顎を上げて一口あおる。相良さんは苦笑すると、私に身体を預けて目を閉じた。

「お酒は嫌いだけれど、先生はお日さまみたいな匂いもしますね。この前はごめんなさい、お母さんとは全然違う」

「お母さんにはお母さんの事情があるんだよ」

「わかんないです。お互いに自分のことで精いっぱいだから」

 そうだね、と言った私は、酒の力を借りることにしてもう一口含んだ。

「ねえ、私と恋愛してみない?」

 相良さんは特段驚いた様子もなく、しかし嬉しそうにはにかんだ。出会ってからたったの二週間で、私の下心はすっかりばれていたことになる。

「私なんかでいいんですか? 私、時々自分がよくわからなくなっちゃうんです。傷つけるようなこと、たくさん言ってしまうと思いますよ」

「構わないわ。カッターとかバーボンとかで自分を傷つけるよりも、そちらのほうがまだ健全な気がする」

 どんな理論ですか、とうつむいて笑った相良さんは、私の提案に条件をつけた。

「とりあえず、季節限定でどうですか? 今の私、ちょっと弱ってるから。峠を越えるまで、先生を利用させてもらいたい」

 あけすけに言うなあ、と呆れつつも、私の答えはイエスしかありえなかった。実際に彼女のそれが季節性であるというのなら、いずれ相良さんは私を必要としなくなるに違いない。あなたに穏やかな毎日が訪れるのならそれでいいよ、と思えない自分は、やはり身勝手で欲深い奴だ。

「……春、終わらないといいよねえ」

「え、先生の意地悪」

 しかし私がいくら抵抗しようとも、季節は必ず巡る。それは勢いをすでに失くした目の前の桜吹雪を見ても明らかだ。しかも風に吹かれた花びらは自由に舞えるわけではなくて、いずれ地面に落ちると柔らかく腐っていくしかない。

 それでも、別々の二枚が偶然同じ花だまりに吹き寄せられて、やがては分解され互いに混じり合いながら土に還るとするならば。同じ桜に養分として吸収されて、いつか一つの花弁となって咲くことができるのならば。私と相良さんだって、きっとどこかで。

 私は相良さんの指に自分のそれを絡めた。夢心地の彼女は気付いているのかいないのか。

「やっぱり春は眠たくなりますね。目が覚めるまで、そばにいてくれますか」

「終業のチャイムが鳴るまで一緒にいてよ、早退するくらいならさ」

「はは、来週からはそうします」

 私の手から離れたスキットルが、花だまりに静かに落ちた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

木の芽時の恋 諏訪野 滋 @suwano_s

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ