9、佐々木原子核研究所跡

 月はその巨大な体積を抱えながらも、なお宇宙空間に浮遊していた。重力は月の中心に向かって、その周囲に発生しており、月が宇宙の底へ向かって落下することはなかった。同じように、地球も万有引力の法則に従って、自転していた。その回転のスピードで私たちは宇宙空間に吹き飛ばされることもなく、この公園には桜の木がまだその異様な形の根を地に這わせていたし、この季節になると、春風に吹かれて美しく舞い散る何千もの花びらもまた、この地上に向かって緩やかな曲線を描きながら、何かしらの法則に支配されつつ、地面へ不時着していた。

 僕は、もう一人の僕について歩きながら、考えた。公園の池からは、何かしらの生き物の気配が感じられた。温かい風に揺られて、植物が揺れるように、夜の公園にもモンシロチョウが舞っていた。彼女は私のように生きることの意味や目的など、余計なことを考える必要もないということを知らしめるかのように、妖艶に風に吹かれていた。

 重力に抵抗するかのように、進化し、軽量化されたそのボディーを宙に浮かして移動する蝶を追って、歩道を離れ、草むらの中へ入って行くと、開けた場所に出た。二つの私の頭の大きさくらいの石の塊が二つ、長方形の石のモニュメントの上に固定されていて、それが何かの記念碑であることが分かった。まるでチェスの駒のようなその二つの石には、光沢があり、周囲から吸収した光を内に含んでは、外部に放射していた。

 その石碑に近づくと、佐々木大学原子核研究所跡と彫られてあった。改めて、二つの球体を見ると、それはなにかしらの物理学的な現象を表象しているかのように見えた。地球が太陽の周りをまわっているように、自分の体を構成する一つ一つの細胞の部品でもある原子もまた、原子核の周りを地球のように回転する電子との組み合わせによって作られているということを想像した。目の前に見ている風景そのものが、何か仮想の世界のように現実味がなかった。その球体は、そのような世界成り立ちの訳の分からなさを象徴するかのように、夜の公園にひっそりとたたずんでいた。

 地面には春だと言うのに、枯れ葉が雨に濡れて湿気を帯びて、風に吹かれ、空気の吹き溜まりのような場所に集められ、独特の匂いを作り出していた。天然の腐葉土たちは、既に幹から切り離され、養分を運ぶための管が切断されているにも関わらず、風に吹かれて、かさかさと音を立ててうごめいていた。まだ、生きている木の葉は、春風で幹が揺れるたびに、葉と葉がこすれ合い、涼しげな音を立てていた。生い茂る葉がこすれ合うその背後には、巨大なマンションに規則正しく並ぶ部屋の光が点滅し、木々は公園に差す光を遮ったり、遮らなかったりしていた。

 じっとりとしていた。春の訪れを今か今かと待っていた虫たちは、啓蟄のときを迎え、公園は命の循環の中で新しくこの世界に開花した蠢くものたちを、歓待していた。鳩が二羽、首を前後に振りながら地面を必要に突っついては、私から適度な距離を保ちつつ、食事をしていた。振り返ると、アゲハ蝶が先ほど見たモンシロチョウよりも高い位置を黄色と黒のよく目立つ、警戒色柄のはねを羽ばたかせながら、私の顔の近くを横切った。もうそろそろ蚊が出て来る季節だった。半袖だったので気になった。

 私はあてもなく、公園の中を歩いた。私は呼吸をすることで二酸化炭素を体の外にはき出し、酸素を吸い込んだ。私の体の一部が体の外に放出され、私の体の外にあったものが、私の体の一部になっていった。その時、私は自分の親指の付け根の部分がシューズに当たる感覚に違和感を覚えた。靴の先の方がやけに固く、歩く度にそれが指先に当たって、痛みを感じた。よくあることだった。新しい靴を買おうと思った。

 公園のベンチに腰掛け、水たまりで濡れてしまった靴下を脱ぐと、どこか異変がないかどうかを確認した。指先に触れると、普段とその様子が違った。爪と皮膚の間にあるはずの溝が平坦に固まり、皮膚に柔らかさがなくなっていた。押しても凹まないし、血液がその中を循環しているような気配がなかった。冷たいというよりも、温度をその部分から感じ取ることができなかった。強く推すと、その部分だけが、取れてしまいそうなくらいだった。足を内側に曲げ、顔を近づけて、よく先端を見て、確かめた。

 指先が「木」になっていた。手の指の爪の部分で、デコピンをしてみた。そうすると、乾いた音がした。とても人間の皮膚が立てるような音ではなかった。あの、人形のようなものはそこに座っていた。私の代わりに車の中で。今ここにいる私は、公園の中で生い茂る木々たちとともに、その形を変形させようとしていた。自分が公園の一部であるということが私をなぜか安心させた。その通りに、私はまたここで一人、身体の一部を木と化し、自己の一部を外部に排出し、捨て去っていた。親密な記憶とともに。親指を、この公園のどこに置き忘れたのか、自分ではもう思い出せなくなっていた。

 月があの夜のように、いくつもその日は夜空にあった。きっとどこかで、あの子が笑っているのかもしれなかった。だから、三日月は、それを祝福するかのように、その形を船のように変形させ、その二つの先端の鋭さを増したのかもしれなかった。木になってしまったら、もう会うことができなくなると思うと、親指の先端を探さなければならないと思った。もちろん僕は木になることを歓迎していた。しかし、木になる前に、もう一度僕は彼女に会いたいと思った。

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