第四話「崩れゆく世界」

【銃後 – 疎開先の村 – 1945年8月15日】


夏の日差しが、山間の小さな村を照らしていた。


美雪は縁側で編み物をしながら、ラジオに耳を傾けていた。健二と明子は村の子どもたちと川遊びに出かけている。


『重大放送あり。正午より天皇陛下のお言葉を賜ります』


アナウンサーの声に、美雪は手を止めた。胸の奥で嫌な予感が渦巻いていた。


正午、雑音混じりのラジオから天皇の声が流れ始めた。


『朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ…』


言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。


敗戦。


日本は負けた。


美雪は膝から編み物を落とし、両手で口を覆った。信じられなかった。あの夫が、国民が、必死に戦い、耐え忍んできたすべてが…。


「あなたが命をかけたのに…皆が耐えてきたのに…」


初めて、彼女の心が折れた。


◆◆◆


【南方 – 米軍捕虜収容所 – 同日】


「日本が降伏したぞ」


英語の声に、武は顔を上げた。捕虜収容所の司令官が日本人捕虜たちの前に立っていた。


「戦争は終わった。お前たちはもうすぐ家に帰れる」


通訳が日本語に訳す間も、武は動かなかった。周囲の捕虜たちから動揺の声が上がる中、彼だけは石のように静かだった。


三か月前、武の部隊は敵陣への突撃作戦中に壊滅。武は重傷を負いながらも生き残り、米軍に捕らえられていた。


「我々は負けたのか…」


その言葉には、誰も答えなかった。


◆◆◆


【銃後 – 疎開先の村 – 夕刻】


「お母さん、なんで皆泣いてるの?」


川遊びから戻った健二が尋ねた。村中が重苦しい空気に包まれていた。


美雪は子供たちの前で泣くまいと、懸命に感情を抑えていた。


「戦争が…終わったのよ」


「勝ったの?」健二の目が輝いた。「お父さんが帰ってくるの?」


美雪は言葉に詰まった。どう説明すればいいのか。


「そうじゃないの…日本は、負けたの」


健二の表情が凍りついた。「嘘だよ…お父さんが戦ってるのに…」


美雪は子供たちを抱きしめた。説明する言葉が見つからなかった。


◆◆◆


【南方 – 捕虜収容所 – 夜】


武は小さな窓から夜空を見上げていた。同じ星空の下、家族は無事だろうか。


「山本さん」


声をかけたのは同じ収容所の軍医、佐々木だった。


「手当てしましょう」


佐々木は武の腕の包帯を交換し始めた。


「先生、私たちは負けたんです」武の声は虚ろだった。


「ええ」


「では、私が部下たちに命じた特攻も…あの死も…何のためだったのでしょう」


佐々木は静かに包帯を巻きながら答えた。


「山本さん、戦いは終わっても、日本人の誇りは失われません」


「誇り…」


武はその言葉を反芻した。彼が信じてきた大義は崩れ去ったが、それでも自分は山本武であり続ける。それだけは変わらない。


◆◆◆


【銃後 – 広島県 – 一週間後】


「すみません、ここが田中さんのお宅ですか?」


美雪は焼け野原となった広島近郊の町で、無事だった一軒の家の前に立っていた。子供たちは疎開先に残し、親の安否を確かめるために一人で来たのだ。


「田中さんなら…隣町に避難されていますよ」


家の主人は美雪を見て、同情的な表情を浮かべた。


「あなたのご実家は?」


「山本と申します。広島の…」


「山本さん…」男性は言葉を詰まらせた。「山本さんのお宅は…あの日の朝に…」


言葉は必要なかった。美雪は全てを理解した。彼女の両親は、あの原爆の犠牲になったのだ。


美雪は足元から崩れ落ちそうになったが、杖のように立っていた。もう泣く涙さえ残っていなかった。


◆◆◆


【郵便 – 山本家宛ての通知 – 同日】


『拝啓 山本美雪様


謹んでお知らせ申し上げます。

陸軍歩兵少尉 山本武殿 南方戦線にて戦死


天皇陛下に尽くされ、国のために散華された勇士のご遺族として…』


美雪は通知を幾度も読み返した。実家を失い、そして今、夫までも。


子供たちにどう伝えればいいのか。


「健ちゃん、明子…お父さんは…」


言葉にならなかった。


◆◆◆


【南方 – 捕虜収容所 – 同時期】


「山本、手紙を書け」


米軍将校が武に紙とペンを渡した。


「家族に送る?」


武は驚いて尋ねた。


「いや、戦死通知が行っている。混乱を避けるため、帰還まで待て」


武は紙を受け取ると、ゆっくりとペンを走らせ始めた。誰にも見せない、自分だけの記録として。


『私は生きている。しかし祖国は敗れた。

数日前、初めて捕虜収容所の外に出る許可を得た。

敵兵は私を囚人としてではなく、一人の人間として扱っている。

何故だろう。彼らは私たちが教えられてきたような鬼畜ではないのだ。

子を持つ父親として私に話しかけ、家族の写真を見せる者さえいる。

敵も味方も、同じ人間だったのか。

では何のために…』


武はペンを止めた。書き続ける勇気がなかった。


◆◆◆


【銃後 – 疎開先の村 – 夕暮れ】


「お父さんは英雄なの?」


健二は泣きはらした目で美雪を見上げた。父の戦死を伝えた後、彼は一日中沈黙していたが、ようやく口を開いた。


「そうよ。お父さんは皆のために戦ったの」


「でも、負けたんでしょ?」


健二の問いに、美雪は答えられなかった。


「お父さんが…死んだのに…勝てなかったの?」


美雪は健二を抱きしめた。


「お父さんが守ろうとしたものは…私たちよ。あなたと明子の未来…」


美雪は必死で言葉を探した。武がいなければ、彼女はどう子供たちを導けばいいのか。


「健ちゃん、お父さんの分まで生きましょう。それが…お父さんの本当の勝利になるの」


健二は黙って頷いた。少年の瞳に、大人びた決意の光が宿っていた。


◆◆◆


【南方 – 捕虜収容所 – 夜】


武は小さな光の下、再び日記を開いた。


『今日、敵の将校から聞いた。広島と長崎に新型爆弾が落とされたと。

想像を絶する被害だという。

広島…美雪の実家がある場所だ。

彼女の両親は無事だろうか。

美雪と子供たちは…


もう何も信じられない。何が正しかったのか、私には分からなくなった。

だが、一つだけ確かなことがある。

私は家族のもとへ帰る。そして生きる。

それだけが、今の私にできることだ。』


星のない夜だった。いつか再び星が見える日が来るだろうか。武にはもうわからなかった。


ただ故郷を思い、愛する者たちの顔を思い浮かべることしかできなかった。

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