第三話「揺るぎない忠誠」
【南方戦線 – 武の陣地 – 1944年6月】
雨季の濁った空が、低く垂れ込めていた。
山本武は塹壕の中で無線機に耳を当て、かすかな通信を聞き取ろうとしていた。三日前から本部との通信が途絶えている。
「小隊長、どうですか?」
副官の中村軍曹が声をかけた。太かった彼の体は、この半年で明らかに痩せていた。
「だめだ」
武は無線機から手を離し、立ち上がった。
「残弾は?」
「銃弾は一人あたり十発ほど。食料は三日分…」
中村の声はいつもより小さかった。
武は塹壕の外に出て、周囲を見渡した。かつて四十名いた中隊は、今や二十名を切っていた。マラリアと栄養失調で戦力は日に日に落ちている。
「孤立無援か」
武は呟いた。しかし、すぐに背筋を伸ばした。
「全員集合させろ」
◆◆◆
【銃後 – 山本家 – 朝】
美雪は黒い空を見上げた。夜明け前だというのに、工場への出勤準備をしている。
隣町への空襲の知らせが届いたばかりだった。日に日に敵機は内地深く侵入してくる。
「お母さん」
健二の声に振り返ると、パジャマ姿の息子が立っていた。十一歳になった彼は、すっかり背が伸びていた。
「どうしたの? まだ早いわよ」
「寝られなくて」
健二は窓の外を見た。「また空襲?」
美雪は首を振った。「隣町よ。大丈夫」
それでも彼女の声は震えていた。
◆◆◆
【南方戦線 – 武の陣地 – 兵士集会】
「諸君」
武は集まった兵士たちの前に立った。疲労と病気で顔色の悪い兵士たち。それでも彼らの目には、まだ光があった。
「本部との連絡は途絶え、孤立している。現状、援軍も補給も期待できない」
静かな声だったが、全員に届いた。
「だが、我々はここで踏みとどまる。それが天皇陛下と祖国、そして家族への忠誠だ」
誰も口を開かなかった。死を覚悟している表情だった。
「各自、家族への手紙を書いておけ。機会があれば本部に届ける」
このとき、武は言葉を選んでいた。「死」という言葉は使わなかった。それでも全員が理解していた。
◆◆◆
【銃後 – 軍需工場 – 昼】
爆音が頭上を襲った。
「敵機だ! 避難!」
作業場に叫び声が響き、人々は工場の外へと駆け出した。美雪も走った。
轟音と共に、工場の一角が崩れ落ちた。美雪はとっさに身を屈め、頭を抱えた。埃と煙が視界を奪う。
「山本さん!」
誰かが美雪の名を呼んだ。振り返ると、同僚の佐藤さんが瓦礫の下敷きになっていた。
美雪は迷わず駆け寄り、周囲の女性たちと力を合わせて瓦礫を持ち上げた。手から血が滲むのも構わず、必死で引っ張った。
「ありがとう…」
佐藤さんを助け出し、避難場所まで支えながら歩く途中、美雪はふと考えた。
「これが戦場なら、あなたはこんなことの連続なのね」
◆◆◆
【南方戦線 – 武のテント – 夜】
「山本小隊長、特別伝令です」
疲れた様子の伝令兵が、密封された指令書を差し出した。
「ご苦労」
武は封を切り、中の命令を読んだ。読み終えると、一瞬、目を閉じた。
「通信班長を呼べ」
しばらくして通信班長が現れると、武は静かに命令を伝えた。
「明朝0500、我々は敵陣地へ突撃する。決行命令だ」
通信班長は言葉を失った。それは実質的な特攻命令だった。
テントに一人残された武は、ポケットから家族の写真と日記帳を取り出した。懐中電灯の弱い光の下、彼はペンを走らせた。
『命を惜しむのではない。ただ子供たちの顔をもう一度見たかった。
美雪、許してくれ。約束を守れないかもしれない。
だが、私は最後まで山本武であり続ける。
ただそれだけが、今の私にできることだ。』
武は日記を閉じ、深く息を吸い込んだ。弱さを見せていられる時間は、これまでだ。
◆◆◆
【銃後 – 区役所 – 翌日】
「山本さん、疎開の手続きはこちらです」
区役所の職員が、美雪に書類を差し出した。
空襲が激化する中、子供たちを郊外へ疎開させる計画が進められていた。美雪は重い心で書類に記入した。
「来週の火曜日に集合ですね」
「はい」
帰り道、美雪は足を止め、空を見上げた。青い空。平和な日には美しく感じたはずの空が、今は敵機の通り道でしかない。
家に着くと、美雪は静かに座り込み、初めて声を殺して泣いた。子供たちがいない間の、数分だけの弱さ。
「あなたが命をかけたのに…皆が耐えてきたのに…」
だが、玄関の戸が開く音がした。美雪は素早く涙を拭った。
「ただいま!」
健二の声に、美雪は笑顔を作り直した。
「おかえり」
◆◆◆
【南方戦線 – 作戦前夜 – 真夜中】
「隊長、みんな準備できています」
中村軍曹が報告に来た。夜明けまであと数時間。
「よくやった」
武は立ち上がり、外に出た。星空が広がっていた。日本でも、同じ星が見えているだろうか。美雪も、この星を見上げているだろうか。
「中村」
「はい」
「もし私が倒れたら、この日記と写真を本部に届けてくれ。家族への手紙も入れておく」
中村は黙って頷いた。
「家族がいるのか?」
「はい。妻と生まれたばかりの息子が」
武は微笑んだ。「いい名前か?」
「はい。『平和』という字を使って『和夫』と名付けました」
「良い名だ」
二人は黙って星を見上げた。言葉にはできない何かを共有するように。
◆◆◆
【銃後 – 山本家 – 疎開前夜】
「お父さんの写真、持っていくよ」
健二は小さなカバンに荷物を詰めていた。明日、弟妹と一緒に母方の祖父母の住む山間の村へ向かう。
「お守りは?」
「うん、入れたよ」
美雪は健二の荷造りを手伝いながら、心の中で何度も繰り返していた。「これでいいのだ。子供たちを守るために」
「お母さん」
健二が真剣な顔で振り返った。
「うん?」
「僕が行っている間、お母さんは一人になるの?」
美雪は息子の頭を撫でた。「大丈夫よ。お母さんは強いの」
健二は母の目をまっすぐ見つめた。「僕が帰ってくるまで、約束して。必ず無事でいてって」
その言葉に、美雪は息をのんだ。出征前夜、武に言った自分の言葉そのままだった。
「約束するわ」
美雪は健二をしっかり抱きしめた。
「健ちゃんは、お父さんにそっくりね」
◆◆◆
【南方戦線 – 決戦前 – 夜明け前】
薄明るい空を背に、武は部隊の前に立った。
全員が最後の整列をしている。痩せこけた体に軍服は大きすぎるほどだが、彼らの目は決意に満ちていた。
「諸君、我々は天皇陛下の名において、祖国と家族のために戦う」
武の声は静かだが力強かった。
「今日の勝利は、明日の平和につながる。諸君の勇気と忠誠に敬意を表する」
最後の挨拶。それは彼らへの感謝でもあった。
「行くぞ」
武は軍刀を抜き、前方を指し示した。
彼は一瞬、空を見上げた。朝日が昇り始め、雲の隙間から光が差し込んでいた。
「美雪、健二、明子…」
心の中で名前を呼んだ。
そして前へ。ただ前へ。
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