第五話「新たな誓い」

【焼け野原 – 故郷の町 – 1946年秋】


灰色の空の下、一人の男がよろめくような足取りで歩いていた。


山本武。かつての凛々しい軍服姿はなく、アメリカ軍から支給された古びた服を着た痩せこけた男が、焼け跡の中をゆっくりと進んでいた。


捕虜収容所から解放され、故郷へ向かう長い旅路を終えた武は、目の前の光景に立ち尽くした。


町はもはや町ではなかった。見渡す限りの焼け野原。かろうじて残った建物の骨組みが、墓標のように立っている。


「ここが…あの町なのか」


武は呟いた。雨が降り始めた。冷たい雨が頬を伝い落ちる。涙なのか雨なのか、もはや分からなかった。


◆◆◆


【仮設住宅 – 美雪の住まい – 同日】


「お母さん、見て! 先生がくれた」


健二が小さな本を手に走ってきた。十二歳になった彼は、すっかり背が伸びていた。


「まあ、何の本?」


美雪は鍋から顔を上げた。バラックのような仮設住宅での生活は不便だったが、子供たちと生きていることだけが、彼女の希望だった。


「算数の。僕、計算が得意になったんだよ」


「まあ、お父さんみたいね」


美雪は微笑んだ。武の名を口にする時、今でも胸が締め付けられた。


突然、戸を叩く音がした。


「はい」


美雪が戸を開けると、町内会の古沢さんが立っていた。


「山本さん…あの…」


古沢さんの顔には、言いようのない表情があった。


「どうかしましたか?」


「駅で…一人の帰還兵が…山本武さんだと名乗る方が…」


美雪の手から雑巾が落ちた。


◆◆◆


【旧駅跡 – 町の入口 – 雨の中】


武は壊れたベンチに座り込んでいた。雨に濡れた髪が顔にへばりつき、視界を遮っている。


どこに行けばいいのか。家はもうない。家族は無事なのか。すべてが分からなかった。


足音が聞こえた。複数の人が、彼に向かって走ってくる音。


武は顔を上げた。


雨の向こうに、一人の女性が立っていた。


「武さん…?」


声が震えていた。


「美雪…」


絞り出すような声だった。


「本当に…あなた?」


美雪はおそるおそる一歩前に出た。


武の目から涙があふれた。強がる必要も、凛々しくある必要もなかった。ただ生きて、ここにいる。


「ただいま…」


美雪は駆け寄り、武をきつく抱きしめた。


「お帰りなさい…お帰りなさい…!」


雨の中、二人は言葉もなく抱き合った。


◆◆◆


【仮設住宅 – 家族の再会 – 夕方】


「お父さん…?」


健二は信じられない表情で、目の前の男を見つめていた。記憶の中の凛々しい父と、今目の前にいる痩せこけた男が重なり合わない。


「健二…大きくなったな」


武は微笑もうとしたが、どこか虚ろな表情だった。


「うん…」健二は戸惑いながらも、「おかえりなさい」と言った。


明子は五歳になっていた。父の記憶はほとんどなかったが、美雪が見せていた写真で覚えていた。


「とうちゃん?」


明子の無邪気な問いかけに、武はようやく本当の笑顔を見せた。


「そうだ…お父ちゃんだよ」


◆◆◆


【仮設住宅 – 夜中】


「うっ…うあ…!」


武は汗だくで目を覚ました。悪夢だ。いつもの悪夢。爆発する砲弾。倒れていく仲間たち。


「武さん…」


美雪が隣で起き上がり、そっと肩に手を置いた。


「大丈夫…悪夢だ」


武は震える手で顔を覆った。


「子供たちに聞こえたら…」


「大丈夫よ。もう寝ています」


美雪は黙って武の背中をさすった。質問はしなかった。心の傷が癒えるのを、ただ待っていた。


◆◆◆


【焼け跡の酒場 – 数週間後】


「もう一杯」


武は粗末なグラスを突き出した。


「山本さん、もういいんじゃないですか」


店主は心配そうに言った。


「黙って注げ」


武の表情は暗かった。帰還してから、彼はしばしば酒場に足を運ぶようになっていた。


「何のために生きたのか…何のために戦ったのか…」


誰に聞くでもなく、武は呟いた。


◆◆◆


【小学校の再建現場 – 同時期】


「健ちゃん、そのレンガこっちに持ってきて」


子供たちが集まって、焼け落ちた学校の再建を手伝っていた。大人たちと一緒に、瓦礫を片付け、使えるものを集める作業だ。


「はい、先生」


健二は真剣な顔で、小さなレンガを運んでいた。


その様子を遠くから、武が見ていた。いつもの酒場への道の途中だった。


「あれは…健二」


◆◆◆


【仮設住宅 – 夕食時】


「今日、学校で何してたんだ?」


珍しく、武が健二に話しかけた。


「えっ?」健二は驚いた顔をした。「学校の再建…手伝ってたよ」


「危なくないのか?」


「大丈夫。みんなで気をつけてる」


健二は懸命に説明した。学校を再建する計画、子供たちがどう手伝っているか、先生が教えてくれることについて。


「なんで…そこまでするんだ?」


武の問いに、健二は真剣な顔で答えた。


「だって、学校がないと勉強できないもん。僕たちの未来のために必要なんだって、先生が言ってた」


「未来…」


武はその言葉を反芻した。


「それに」健二は少し照れながら続けた。「お父さんが守ろうとしたのは、戦争じゃなくて、僕たちの暮らしだったんでしょ?」


武は息子の言葉に息をのんだ。


◆◆◆


【武の日記 – 深夜】


武は捕虜時代の日記を取り出し、読み返していた。


『私たちの戦いは、何のためだったのか…』


最後のページをめくると、まだ書かれていないページがあった。武はペンを取り、久しぶりに書き始めた。


『私は帰ってきた。家族は私を待っていてくれた。

だが私自身は、まだ戦場から帰れていない。

今日、健二が言った。「お父さんが守ろうとしたのは、僕たちの暮らしだった」と。

その通りだ。私が本当に守りたかったのは、大義名分でも国体でもなく、

ただ子供たちが平和に暮らせる世界だった。

敗れたからといって、その思いまで負けたわけではない。

私たちの犠牲は無駄ではなかった。

それは未来のための苦しみだったのだ。』


武は深く息を吐いた。胸の奥の重しが、少し軽くなったような気がした。


◆◆◆


【焼け跡の学校 – 数日後】


「山本さん?」


学校再建の現場にいた校長先生が、武を見て驚いた顔をした。


「手伝わせてください」


武は帽子を脱ぎ、深く頭を下げた。


「私は…この町の教師でした。もう一度、子供たちのために」


校長は武の肩を叩いた。「ありがとう。人手が足りなくてね」


その日から、武は酒場に行かなくなった。


◆◆◆


【新しい学校 – 1947年春】


「皆さん、おはようございます」


武は再び教壇に立っていた。仮設の校舎で、窓もろくになかったが、子供たちの顔は輝いていた。


「今日から、皆さんと一緒に学んでいきましょう」


健二も教室の隅に座っていた。父が教壇に立つ姿に、誇らしい表情を浮かべていた。


放課後、武は健二を呼び止めた。


「一緒に帰らないか」


「うん!」


二人は学校を出て、焼け跡の中を歩いた。


「健二、ありがとう」


「え?」


「お前が…私に道を教えてくれた」


健二は恥ずかしそうに頭をかいた。父と並んで歩く幸せを、静かに噛みしめていた。


◆◆◆


【学校の裏庭 – 同日】


「ここでいいだろう」


武は小さな穴を掘り終え、美雪に向き直った。


「まだ小さいけど」


美雪は小さな桜の苗木を持っていた。家族四人で植樹をするための苗だ。


「私たちは見ることができないかもしれないが」武は穴に目をやりながら言った。「この木が大きく育つ頃には、新しい日本が築かれているだろう」


美雪は静かに頷いた。「それが私たちの本当の勝利よ」


健二と明子も手伝って、四人で苗木を植えた。小さな命。これから育っていく希望の象徴。


◆◆◆


【学校の桜 – 十年後 – 1957年春】


満開の桜が風に揺れていた。


「新入生の皆さん、ようこそ」


二十二歳になった健二が、教壇に立っていた。父の後を継ぎ、教師になった彼は、新学期の始業式で挨拶をしていた。


「この桜は、私たち家族が十年前に植えたものです」


生徒たちは美しい桜を見上げていた。


「困難な時代を経て、日本は再び立ち上がりました。それは多くの人々の犠牲と努力があったからこそ」


健二は教室の後ろに立つ父を見た。五十二歳になった武は、髪に白いものが混じりながらも、背筋を伸ばして立っていた。


「命を懸けてこの平和を築いた人々の思いを、決して無駄にしてはならない」


健二の言葉に、武は静かに頷いた。手には古びた日記帳。かつての苦しみを記した記録は、今や次の世代への大切なメッセージとなっていた。


桜の花びらが舞い散る校庭で、武は空を見上げた。


「見ているか、皆」


戦場で散っていった仲間たち。原爆で命を落とした美雪の両親。多くの犠牲の上に、今がある。


美雪が武の隣に立ち、そっと手を握った。


二人の視線の先で、桜は風に揺れ、花びらは未来へと舞っていた。


【完】

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明日を信じて セクストゥス・クサリウス・フェリクス @creliadragon

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