第二話「揺るぎない信念」

【南方戦線 – 武】


南方の島。蒸し暑い空気が肌に張り付く。


山本武は額の汗を拭いながら、地図を広げていた。小隊長に昇進してからひと月。十五名の兵士を率いる責任の重さを、日に日に実感していた。


「山本小隊長、偵察から戻りました」


声の主は十九歳の松田一等兵。まだ顔に少年の面影を残す若者だった。


「ご苦労。状況は?」


「敵影なし。ただ、西側の小川は増水しています」


武は頷き、地図上に新たな印をつけた。


「わかった。休憩しろ」


「はっ!」


松田が敬礼して立ち去ると、武は懐から一枚の写真を取り出した。出征前に撮った家族写真。美雪と健二と明子。彼らの笑顔が、この灼熱の地で武の心を支えていた。


◆◆◆


【銃後 – 軍需工場 – 美雪】


「山本さん、これを持ってってくれない?」


工場の休憩時間、監督者が美雪に声をかけた。追加の部品箱だった。


「はい、喜んで」


美雪は既に両手に箱を抱えていたが、さらにもう一箱を積み上げた。バランスを崩しそうになるが、美雪は背筋を伸ばし、よろめくことなく歩き出した。


「大丈夫? 重そうだね」


「何言ってるの。これくらい」


美雪は笑顔で答えたが、腕の筋肉は悲鳴を上げていた。夜勤から朝勤へのシフト変更で睡眠時間は四時間ほど。それでも彼女は愚痴一つこぼさなかった。


「あなたはもっと大変なはず」と美雪は心の中で呟いた。夫への思いが、彼女の疲れた体を支えていた。


◆◆◆


【南方戦線 – 武の小隊】


「隊長! 森田が倒れました!」


叫び声に武は振り返った。先頭を歩いていた森田二等兵が地面に崩れ落ちている。武は即座に駆け寄った。


「熱射病か」


顔は真っ赤で、体は熱を持っていた。マラリアの症状とも違う。


「水を!」


部下が水筒を差し出す。残り少ない貴重な水だ。武は森田の唇を湿らせ、額に水で濡らした布を当てた。


「休憩だ。十分間」


誰かが「でも予定より…」と言いかけたが、武の鋭い視線に言葉を飲み込んだ。


「任務は大切だ。だが、仲間はもっと大切だ」


武の声に迷いはなかった。彼は森田を自ら背負い、「行くぞ」と命じた。誰も異論を唱えなかった。


◆◆◆


【銃後 – 山本家 – 夕方】


「お母さん、これ」


健二が学校から帰ると、美雪は夕食の準備をしていた。健二が差し出したのは、新聞紙で包まれた小さな包み。


「何これ?」


美雪が開けると、小さなカブが二つ出てきた。


「先生が持ってきてって。みんなで学校で育てたんだ」


「まあ、立派なカブね」


美雪は嬉しそうに微笑んだ。配給の減った今、この野菜は貴重だった。


「さあ、今日の夕食はごちそうね」


美雪は包丁を手に取った。その時、指先の絆創膏がほどけ、赤い血の跡が見えた。


「お母さん、手、怪我してるの?」


美雪は慌てて手を隠した。


「ちょっと工場で。でも大したことないわ」


実際は、毎日の重労働で手のひらは皮が剥け、血豆だらけだった。でも子供たちに心配をかけるわけにはいかない。美雪は明るく言った。


「健ちゃんも毎日頑張ってるもんね。お父さんに手紙書く? カブの絵も描いて」


健二の目が輝いた。


◆◆◆


【銃後 – 美雪の手紙】


『親愛なる武様


お元気ですか? こちらは皆、健やかに過ごしております。

健二は学校の集団勤労で野菜を育て、今日はカブを持ち帰りました。

明子も大きくなり、お父様のお写真を見ては「とうちゃん」と呼びます。

工場の仕事も充実しており、皆で力を合わせて頑張っています。

どうか、ご自愛ください。勝利の日を信じて。


美雪より』


美雪は本当のことを書かなかった。配給の減少、工場での怪我、近所での空襲警報。そんなことを知れば、夫は心配するだけだ。


彼女は手紙を封筒に入れ、健二の描いた絵と一緒に郵便ポストへと向かった。


◆◆◆


【南方戦線 – 武のテント – 夜】


「山本小隊長、本部からの通信です」


武は通信兵から紙を受け取った。新たな作戦指示だった。


危険な任務。成功率は低い。


武は黙って読み終えると、「了解した」と答えた。


テントに戻ると、彼は家族からの手紙を再び読み返した。美雪の丁寧な字。健二のぎこちない絵。それらは武にとって何よりの宝物だった。


「家族のために」と武は呟いた。「皆の家族のために」


彼は懐から日記帳を取り出し、ペンを走らせた。


『今日も一日、無事に過ごせたことに感謝する。

明日は新たな任務。危険も伴うが、ここで踏ん張らねば、家族の未来はない。

時に疑問が湧く。この戦いの意味を。

だが、その答えを探している暇はない。

ただ前へ進むのみ。

美雪、健二、明子のために。

日本の未来のために。』


日記を閉じると、武は立ち上がった。テントの外では部下たちが待っている。


「作戦会議だ」


武の声には迷いがなかった。背筋はまっすぐで、眼差しは鋭く前を見据えていた。


たとえ体は疲れていても、心は決して折れない。


それが山本武の揺るぎない信念だった。

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