明日を信じて
セクストゥス・クサリウス・フェリクス
第一話「揺るぎない覚悟」
召集令状が届いたのは、桜の散り始めた四月の朝だった。
山本武は、そのはがき一枚の重みを、両手で受け止めていた。召集令状——いつかは来ると覚悟していたものの、現実となると胸の奥が締め付けられる思いだった。
だが、表情には出さない。
「お召しになったのですね」
背後から妻の美雪の声がした。振り返ると、彼女は赤ん坊のような明子を抱きかかえ、七歳の健二の肩に手を置いて立っていた。美雪の瞳は震えていたが、声は冷静だった。
「ああ」
武は頷き、畳に正座した。美雪もその隣に座った。明子は母の膝に収まり、健二は少し離れて立ったまま父を見つめていた。
「いつ出発なさるのですか?」
「明後日だ」
武は簡潔に答えた。美雪の目が一瞬だけ見開かれたが、すぐに落ち着いた表情に戻る。
「そうですか。では準備をしなければ」
美雪はそう言って立ち上がろうとしたが、武は彼女の袖を掴んだ。
「美雪」
「はい」
「泣くな」
「泣いてなどいません」
美雪は背筋を伸ばし、きっぱりと言った。武はその強さに一瞬、言葉を失った。
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夕食時、家族四人が囲む食卓は、いつもより静かだった。いつもより質素な米と漬物だけの食事だったが、美雪は「お祝い」だと言って、わずかな砂糖で甘くした小豆を用意していた。
「先生、本当に行っちゃうの?」
健二が箸を置いて尋ねた。学校でも武は「山本先生」だった。
「ああ、行くよ」
「でも、学校は? 僕たちの勉強は?」
武は微笑み、健二の頭を撫でた。
「学校には代わりの先生が来る。お前たちも立派な日本人として、しっかり勉強するんだ」
「日本人として…」健二が小さく呟いた。
「健ちゃん」武は息子の顔をまっすぐ見つめた。「お父さんがなぜ戦争に行くか、わかるか?」
健二は首を横に振った。
「お前たちが安心して暮らせる日本を守るためだ。お前や明子、そして生まれてくる日本の子どもたちが、誇りを持って生きられる国を守るんだ」
武の声は静かでありながら、芯が通っていた。
「でも、お父さんがいなくなるのはイヤだよ」
健二の目から涙がこぼれた。武は息子の涙を親指で拭いながら、優しく諭した。
「男は時に、自分の幸せより大きなものを選ばなければならないんだ。私一人の幸せより、お前たちの未来と国の行く末が大切なんだよ」
美雪は黙って夫の言葉を聞いていた。明子は何も理解していないようだったが、家族の雰囲気を感じてか、おとなしく母にしがみついていた。
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出征の朝は、驚くほど晴れ渡っていた。
武は新しい軍服に身を包み、玄関に立っていた。荷物は最小限。軍人としての必要なものだけを詰めた小さな鞄を手に持っている。
美雪は武の軍服の襟を直し、小さな千人針の袋を差し出した。
「皆さんが一針ずつ…近所の方も、学校の生徒さんたちも」
武はそれを受け取り、内ポケットにしまった。
「ありがとう」
「必ず…」美雪の声が詰まりかけた。彼女は一度深呼吸し、「必ず無事でお帰りください」と言い切った。
武は美雪の手を握り、低く答えた。
「必ず勝利し、新しい世界を子供たちに残すと約束する」
その時、健二が駆け寄ってきた。手には小さな日の丸の旗。
「お父さん、これ」
武は息子から旗を受け取り、一瞬だけ抱きしめた。そして明子の頭を撫で、家族三人を見つめた。
「美雪、子供たちを頼む」
「はい。銃後の守りは私にお任せください」
武は最後に一礼し、家を後にした。
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駅までの道は、日の丸の旗が並ぶ参道のようだった。町の人々が集まり、出征する兵士たちを見送っている。武のクラスの生徒たちも、両親に連れられて来ていた。
「山本先生、万歳!」
「武運長久!」
「天皇陛下万歳!」
歓声が湧き、人々は旗を振る。武は一歩一歩、堂々と歩いた。まっすぐに前を向き、一度も振り返らなかった。
その背中を、健二は固く見つめていた。父の姿は、少年の目に焼き付いた。
風になびく日の丸。響きわたる声。そして父の凛とした背中。
健二の小さな胸の中で、何かが芽生え始めていた。
それは、誇り。
そして、覚悟。
武が列車に乗り込む瞬間、一瞬だけ振り返り、遠くの家族に向かって敬礼した。
列車が動き出す。汽笛が鳴り、白い煙が立ち上る。
健二は小さな日の丸を振り続けた。父の姿が見えなくなるまで。
そして心の中で誓った。
「僕も、お父さんみたいになる」
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