第4話 わるいこと

 すがるように予約をした二週間後、ようやく医者にかかれた。悪夢に悩まされていると言ったら、以前と違う処方にしようか、と言ってくれた。


「悪夢って、職場にまつわること?」

「いいえ。昔のトラウマで……」


 そこで言葉を区切ると、お医者さんは事務的に言った。


「嫌なら無理に言わなくていいですよ。あと、ご飯は食べれそうなら食べてくださいね」


 薬局へ行き、錠剤を受け取る。よくわからないけど、睡眠薬のたぐいを出されたみたいだ。


 これで、金色の目の先生も、園児の化け猫たちも、毎晩見る悪夢から消えればいいんだけど――あの姿を思い出しただけで、喉の奥から何かがせりあがってきそうだった。


 運転する元気があってよかった、と心から思った。スーパーであれこれと食べ物を調達し、アパートへと戻ってくる。


 車に鍵をかけ、二、三歩歩いたところで。


 視界の端に何かが動いた。振り返るとそこには、えびらと名乗った彼の姿が。


 どうして、私の住処を知っているのだろう。


 箙は、少しだけ穏やかな表情をしていた。図書館で会った時は、何物にも動じず静か、という印象だったような。


 眼鏡を外し、片手で目をこすった彼はさらにほほ笑む。


「よかった。ちょっと話があるんですよ」


 私はとっさに車へ乗りこみ、急発進させた。


 角を曲がり、法定速度なんか考えないで、ただひたすら前へ。嫌なものから、嫌な予感から逃れるために。


 息が荒くなっていく。大脳が破裂しそうだ。手汗のせいでハンドルがすべり、車が蛇行する。去った方から、次々に響くクラクション。


 事故だけはごめんだ、という一心で、私は最後の気力をふりしぼって車を停車させた――今日は休館の、図書館の駐車場に。


 珍しいことにこの図書館は、毎週月曜じゃなくて第二、第四水曜日が休館日なのだ。広々とした駐車場に、始まったばかりのオセロのように車が停まっている。


 車から転がり出ると、どこへ行けばいいかもわからないまま、足をもつれさせながら走った。箙から、あの大学生の男の子から、逃げないと。


 ああ、まずい。息が吸えない。視界がチカチカする。頓服薬は、どこにあったっけ――?


 すがるように手を探るけど、そこはただの空白だった。慌てすぎて、鞄を車の中に置いてきてしまったのだ。


 絶望したお蔭なのか、脳の混乱は一時停止してくれた。けど。


 後ろから、私を抱きかかえる腕が生えてくる。


「危ないですよ?」


 こちらを見下ろしてくる箙の右目が、固めたのに半分崩れたゼリーのようだった。

 喉の奥から、悲鳴にならない悲鳴が漏れる。


「や……許して」

「許す……今更? 何を?」


 穏やかだった箙の声が、怒気と共に強くなった。


 形を保っている左の白目が、金色に輝いていた。


「覚えていますよね? あなたが、僕に何をしたのか」


 記憶の中で、ビックバンのように過去の景色がはじけた。





 小学生だった私は、同い年の子達と一緒に、地元の図書館で宿題をしていた。


 自習室の無い小さな図書館だったから、他の利用者もいる閲覧室で勉強をしていた。でも小学生の女の子が四人も集まれば、黙っていることなんてできるはずもなくて。


 ヒソヒソ話していたつもりだったけど、徐々にボリュームは大きくなっていった。誰にも注意されなかったのは、たまたまお客さんが少なかったからだろう。


「宿題終わったし、何か読まない?」

「うん、そうしよう」


 そして、私を含めた四人は連れだって絵本コーナーへ行き、各々好きなものを選んで戻ってきた。私以外の三人が手にしたのは、『宝石をたべたクロネコさん』のシリーズだった。その三冊のどれもが、何十回と借りられ読まれたのが一目でわかるほどに、よれよれで修理された形跡もたくさんあった。


 固まっていた私を尻目に、他の子達はささやきあう。


「他の絵本選んでくる? クロネコさんばっかりだとつまんない」

「じゃあ、私違うのにするよ。ついてきて?」


 一人が行き、二人がその後を追った。私だけが、椅子に座ってじっとクロネコさんの絵を見ていた。


 誰かが開いたままのそのページは、イタズラなのか事故なのか、端から五センチくらい破けた跡がある。セロハンテープではないビニール素材の何かが貼られていて、元通りにされていたけど。


 ページが割かれていても、クロネコさんはバリバリムシャムシャ、怖い顔で宝石を食べていた。


 そう、あの時の私はまだ、クロネコさんが怖かった。真っ赤な口は、この世ではないどこかへ強制的に誘っているようで。血と悪意のスープのようで。


 そのページの、クロネコさんは言う。



 ――ぼくは ほうせき だいすきなのさ



 衝動にかられた私は、効き手で握った鉛筆を、何かを封じるように突き立てたのだ。


 クロネコさんの、右目へと。


 少し後にみんなが戻ってきて、私の背中から脇からとにかく冷や汗が噴き出たのだけど、絵本そのものがボロボロだったからか、私の過ちに気づいた子は誰もいなかったのだ。






 あの日以来、誰にも言えてなかった。


 クロネコさんが怖いことも、クロネコさんを傷つけてしまったことも――

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