第16話 “あの山羊は誰?”

「誰にも見せるなと言ったはずです」

「ハルの記憶が戻ればって、そう思って……」


 記憶はともかく、姿だけは人に近い状態に戻っている。それが日記を読んだ影響でないともビョークには言い切れなかった。

 あの山羊にすら見せるなという意味で言ったのだ。そのように伝わっているはずだと思っていたし、チユも理解しているものと思っていた。


「教典は兵器だと説明しましたよね」

「種と苗木が兵器になるの?」


 やや強い口調で言ったチユが、間違えたというような顔をした。


「わたしには、日記にしか見えなくて……」


 チユは歯切れが悪かった。目を合わせようとしない。

 それが自然な反応なのかもしれなかった。

 研究に明け暮れているビョークからすれば、教典が兵器に成り得るということは常識であり、疑う発想すらない。自分でも執筆することによってそれを目の当たりにしてきた。

 ビョークは自分の持つ黒い教典をチユへ見せた。


「これは知ってますね」


 黒いアメーバと巨大な文化包丁が飛び出す教典だ。


「僕はこの一冊しか持っていません。二冊目を書きたくても教会が許可してくれません。これを人に使えば簡単に殺めることができます。対ヘルデにおいては非常に有効でした。潜り業がはかどった。イカルガさんがいなくとも卸業は成立したでしょう」

「でも……ハルが書いた日記だよ? 苗木を見たでしょ? そもそも、どうして教典だって言えるの? だってハルは本が嫌いだったでしょ? ハルに教典の書き方を教えたの?」

「教えてません。そもそも教典に書き方なんてないんですよ。ある特殊な紙に、ヘルデの血で書いたものが教典になるんです。昔は人の血を使っていました。一つ条件があるとすれば、読解者が必要だということです。読まれても、理解されなければ読解者の数にカウントされません」


 カウントされなければ力になりません、とビョークは付け加えた。


「詳しくは、教典を奪い返したあとに説明します」


 ふとビョークは気づいた。

 チユの言う通りだ。生前のハルタは読書嫌いだった。彼に教典の教養はない。あるはずがないのだ。どこで作成方法を知ったのか。


「あの山羊は誰だ?……」





 アパートを飛び出したハルは自由を手に入れたようだった。住宅街を駆け抜けた。

 大橋を渡った。繁華街へ近づくにつれ通行人が増してゆくが、構わずマーコールの角を人目に晒した。

 ちらちら蓋ノ人たちが見て来る。

 不愉快な奴らだ。こいつらは耳絶ちのない者を人間とは認めない。

 つまりこの町では、ハルは人間扱いされない。

 ビョークのような外国人は別だ、いっちょ前に区別をつけてやがる、とハルは何から何まで気にくわないという視線をサングラス越しに町へ向けた。


 どこへ行こうかと考えたが思いつかなかった。

 とりあえず腹ごしらえが先だ。いつもの焼き肉屋へ直行した。


 扉の鈴が鳴る。

 店に入り、いつもの座敷に着くと生レバーと細切り生肉を注文した。

 運ばれてくるなり、がっついた。しばらく経っても網は手付かず。


 真っ昼間から店内には肉の焼ける音と匂いが充満していた。

 ハルの角をちらちら気にしていた数人の客も、そのうち飽きて網の上のロース、カルビへ目をやった。

 食べ終えたらどこへ行こうか、とハルは改めて考えた。

 ここの代金を払う金がない。無銭飲食するつもりだ。そのあとはどこへ行こう。


 メロンソーダをストローで飲んでいると、テーブルを挟んだ向かいにチユの姿が現れて消えた。彼女は笑っていた。ついこの間もここで二人で食事をした。そのときの記憶が蘇ったらしい。

 ハルは気分が悪くなった。胸のあたりがもやもやする。

 アパートを出たとき、チユの肩に腕が当たってしまったことを思い出した。彼女はビニール袋を落とした。昼飯を買って来たに違いない。寿司と茶碗蒸しがどうだとか言っていた気がする。

 記憶から消そうと首を振った。


 カランカラン、と店の扉の開く音がした。

 息せき切った呼吸が二つ聞こえた。第六感のようなものが働いたのか、ハルは何故だかそれがチユとビョークだと思った。

 入口へ振り返るとビョークとチユ──二人と目が合った。


 ビョークが怖い目をしてずけずけやって来る。彼はテーブルを挟んだ向かいに座り、胡坐をかいた。チユがその背後を通って奥に座った。


「どうしてここが分かったのか……そう、言いたげですね」


 捕まえたことが確定したかのような目で、ビョークはこちらを睨んだ。

 気の早い人だ。開口一番にそれか、とハルは生レバーをごま油に浸して口に入れる。味を楽しんだ。

 追いかけっこする前に全部食べてしまおう。

 代金はこの人に払わせればいい。

 無論、店長はハルだけ無料にしてくれるだろう。食べ盛りだからと子どもには優しい。


「どうしてわかったの?」


 仕方がない聞いてやるか、とハルは応答した。

 直後、お尻に違和感を覚えた。何か感触があって、ハルは尻を浮かす。すると何かが顔の傍をひゅんと横切って、ビョークの方へ飛んでいった。

 黒いアメーバだった。

 アメーバは、ビョークの持っていた黒い本の隙間に入っていった。


「あなたに見せたことはありませんでしたね。僕の教典です」


 どうやら発信機的なものをつけられていたらしい。

 一九歳のハルタは、ビョークのこの教典についても知っていたのだろうか。ハルはため息が出た。


「何か頼めば」


 そう言ってすぐハルの表情が固まる。ビョークの手にクリーム色の本が見えたからだ。ふところにしまっておいたはずだ。

 今のアメーバが盗んでいったのか。


「返して」

「返す? いやいや、それはおかしな物言いですよ。これはハルタさんのものだ、あなたのじゃない」

「僕んだ」

「へえ、これ、あなたのなんですか。驚きですねぇ、あなたが書いたんですか?」

「未来の僕が書いた」


 テーブル横の点火レバーをビョークが捻った。

 火が付くと、彼はハルの日記を網の上に置いた。チユが慌てて止めようとするが手で遮った。それからハルをじっと見つめた。


「なるほど」


 しばらくしてビョークはトングで日記を網から引き上げた。


「知ってたってわけですか」


 ハルは反応しなかった。


「大事な日記が燃やされそうなのに、あなたは表情一つ変えない。サングラス越しにちゃんと見えてますよ」

「どういうこと?」


 チユが訊いた。


「この紙は局地樹きょくちじゅを加工して作られているんです」

「局地樹?」

「焼き肉屋の火くらいじゃ燃えないってことです。この世に教典を燃やせるものがあるとすれば、チユさんの熱線か、もしく蓋ノ騎士の……それはともかく、何故かは知りませんが、彼は初めから教典が燃えないことを知っていたようです」

「そうなの?」


 チユはハルに顔を向けた。


「教典が燃やせないことを僕はハルタさんに教えてません。つまり、あなたはハルタさんではありません。ただの山羊か悪魔か、それ以外かです」


 ふふ、とハルは鼻で笑った。


「ハルだよ。僕はハルだ」

「今朝、書店でこのようなものを見つけました」

 

 ビョークは先ほど購入した『僕たちが浮遊島をつくりました』の書籍を見せた。


「気づいたのは早朝です。機械への疎さが仇になりました。まさか情報共有サイトに日記の内容をすべてアップロードしていたとは」

 

 それも九カ月も前に、とビョークは付け加えた。


「手遅れだとわかり、僕は頭が真っ白になりました。極めつけはこの書籍です。本屋の前に宣伝用の旗を見つけ、興味本位で購入しました。嫌な予感はしていました。浮遊島関連のエッセイや評論書は、これまでにいくつも出版されています。しかし浮遊島に対して“つくった”という概念を持ち込んだのは、悪戯であってもこの書籍が初めてです。普通、あんな大きな、それも空に浮いている物体に対して、“つくった”などという発想は出てきません」

「驚かせようと思ったんだよ。ね、お姉ちゃん」


 ビョークが目を丸くしたまま固まった。

 ややあって、彼はゆっくりと隣のチユへ振り向いた。

 彼が言葉を失っている間、チユはどんな表情をすればいいのかわからないらしく、張り詰めた真顔になっていた。


「チユさんもグルですか?」

「違う、わたしは」


 ビョークは人差し指をぴんと立て、チユの発言を制止した。目をぎゅっと瞑った。


「話を切り出したのはあなたですね」


 目を開くとハルを睨んだ。ハルの口元が笑った。


「でも止めなかったのはチユさんです」

「気づいたらハルが日記を全部投稿してて」

「ではこの書籍は?」

「それは……」

「なんだよ、本くらい別にいいじゃん」


 ハルが言った。


「自分の書いたものが本になったら素敵でしょ? それだけだよ」

「違いますね。あなたは読解者を増やそうとしたんだ。その教典の力を拡大させようとした」

「読解者? 何の話?」

「まだ嘘が通ると思ってるんですか。化けの皮は剥がれているんですよ」

「化けてないよ。ほら、人間だ」


 ハルは手の平を見せた。


「僕の目には、まだあの丘にいたときの山羊に見えます」

「眼下に行った方がいい」


 ビョークの怒りが沸点に達したことに、ハルは気づいた。

 来るぞ来るぞ、と彼が怒鳴るのを待ち構えた。スローモーションのように感じた。本当はすぐに怒鳴りたかったくせに溜め込みやがって、と内心で嘲笑い、待った。

 ビョークが鼻からため息をついた。おとぎ話の竜の鼻息のようだった。


「日記を返してください。それはあなたのじゃない、ハルタさんのものです」


 そのとき、店内から騒がしい物音がした。


 チユとビョークが気になって視線を向けると、あるテーブルに土足で上がる男性客の姿が見えた。

 同席する人たちが、何やってんだ下りろ、と声をかけている。彼は言うことをきかない。

 太い換気ダクトを固定している細いパイプにネクタイを結び付けた彼は、余ったネクタイを自分の首に巻き付け、しっかりと結ぶとテーブルから飛び降りた。

 みるみる顔が梅干し色に変わり、ぴんと張ったつま先が痙攣した。

 首吊り自殺だ──。

 騒ぎを聞きつけ店長が厨房から飛び出てくる。肉を切り分けるためのハサミでネクタイを切り、男性客を下ろした。


「ちょっとお客さん、何があったか知んないけど、首吊りなんてやめて頂戴な」


 店長へ、同席の客たちが謝罪していたときだった。

 別の席だ。ある男性客が連れの男性の首からネクタイを奪った。彼はテーブルへ上がり首を吊ろうと試みた。おいやめろ、と同席の男性客が彼の腰にしがみつく。店長が気づき、駆けつけて羽交い絞めにした。

 また別のテーブルから物音がした。見ると女性客が腰のベルトを抜き、今しがた男性客が行った方法と同じ手順──パイプにベルトを通して自分の首ごと縛り付けた。そのあとテーブルから足を滑らせた。


「ちょっと、どうなってんのさ」


 ハルは生レバーと細切り生肉をかきこんだ。メロンソーダを飲み干し、水で口内をゆすいで飲み込む。

 座敷から飛び降りて店を出ようとした。


「ビョーク、ハルが逃げる」


 チユに気づかれた。


「あ、日記がない」


 ビョークが慌てた。


「追いかけてください!」

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