第14話 “唯一のぬくもり”
キーボードを叩く音がして目が覚めた。
薄目を開けると、机の上でブラウン管パソコンが光っていた。
椅子に人の背中と後頭部が見えた。頭から角が生えている。
角──。
チユは寝起きで力の入りきらない上体を起こし、首を伸ばし、目を細めた。それと同じくらいのタイミングで、彼は振り返った。
「お姉ちゃん」
チユは言葉を忘れた。
夢かと思った、と思うことは現実にそれほどないが、彼女は夢かと思った。
それはハルだった。
おそらく一三歳頃のハルだろう。山羊ではない。
ただし頭からマーコールのような角が生えている。
日々野翔二郎の病室に流れていたテレビ番組を思い出した。あそこに映っていた山羊の角にそっくりだ。
「角が……」
チユは声を漏らした。
「どうしたの?」
ハルが不思議な顔をして訊いた。
ここ、とチユは自分の頭を触った。
「角が生えてる、マーコールみたいな」
躊躇いながら頭を触ると、やがてハルの表情が引き攣る。
彼は洗面所へ走っていった。リビングを出る際、扉の上部で角をぶつけ、顎が上を向いていた。
廊下を走る音がしてから数秒後、洗面所の方から鈍い悲鳴が聞こえた。
扉を潜るときややしゃがみ、ハルは角を撫でながら戻ってきた。二本角は螺旋を描きながら、天を突くように伸びていた。
「なにこれ!」
「それより、その顔でしょ」
あ、とハルが思い出したような顔をした。
「……山羊じゃなくなってた」
チユは起き上がってハルの顔を触ってみた。確かめた。
「記憶は戻った?」
ハルは首を振った。
「戻ってないと思う」
「腰から下は……その、どうだった?」
「ちゃんと戻ってた」
角以外、人間に戻っている。
「とりあえずビョークにも教え……」
ブラウン管パソコンにの画面に目が向いた。今しがたハルが使っていた。チユは、彼にパソコンの使い方を教えた記憶はない。
「何してたの?」
ハルがパソコンを使えたことすら知らなかった。
「日記を投稿してたんだよ。浮遊島の情報提供ページに」
体が熱くなった。チユはパソコンの画面を迫るように見た。
「なんで、そんなこと……」
「あれ、ビョークが昨日言ってなかった? 日記を投稿しようって。お姉ちゃん疲れてたみたいだし、だったら僕がやっといてあげようと思って」
ブラウザ画面には『浮遊島へようこそ』と上部にあった。チユはアカウントページから投稿リストを開いた。口が開いて固まる。
「全ページ投稿したの?」
「うん」
「一部分だけって……」
「え?」
「浮遊島のシステムや役割、それが書いてあるページだけ投稿するつもりだったの。ビョークがそう言ったでしょ?」
「そうだっけ?」
チユは肩を落とし、ため息をもらした。
「いいじゃん、別に。大は小を兼ねるっていうし、全部読ませれば」
「そういう問題じゃないの」
「何が?」
「ビョークが駄目って言ったの。人に見せるなって」
パソコンの傍に日記があった。クリーム色の装丁をしている。
「これは僕の日記でしょ? 僕は大勢の人に知ってもらいたいんだ。それの何が駄目なの?」
「教典だから」
「……教典?」
間があって、ハルが訊いた。
「これは教典なの。日記じゃないの」
チユは言い直した。
「教典って?」
「不思議な力を起こす本のこと。ビョークも一冊持っていて、彼が所属する人間愛護教会が調べてる。これは教典である可能性が高いってビョークが言ったの」
「ふうん、未来の僕は教典を書いてたんだね」
ハルは角を撫でた。
「で、何で教典だと読ませちゃ駄目なの?」
「それは……」
「ただの日記じゃん」
「──教典は、兵器に成り
チユは記憶を探り、ビョークの言葉をなぞった。
「兵器?」
「教典は、読解者の数に応じて力を増す。ビョークはそう言ってた。だから教会では、執筆するにも申請書類を提出して、許しを貰わないといけないし、誰かに読ませるにも同じ手順を踏まないといけないって。そうやって厳重に管理されてるって」
ふうん、とハルが鼻を鳴らす。
彼はテーブルの日記を手に取ると、軽んじるような目で裏表紙を見たりページをくったりした。
チユはベランダに出て、素焼き鉢を三つ持ってくるとテーブルに並べた。それぞれ培養土が入れてあり、内一つに背低い苗木が生えていた。
「これ、その教典でやったの」
「やった?」
「生やしたってこと」
「これを?」
ハルが苗木を指差すと、チユは頷いた。
「最初読んだときは種が出せた。もう少し読むと苗木を出せるようになってた。それをこの素焼き鉢に移し替えたの。こっちの土にはその時の種が入ってる」
チユはハルから日記を受け取ると、三つ目の素焼き鉢へかざした。すると日記がやや光を放ち、土から苗木が生えてきた。
「ハルらしい……」
チユは薄っすら笑みを浮かべた。
「教典は、読んだ人の理解度に応じて形を変えるんだって。原書を持っていれば著者以外も使える……これね、これ以上育たないんだけど、枯れもしないの。ずっとこのままなんだ」
「これのどこが兵器なの?」
チユは言い返す言葉が見つからなかった。
「ビョークがそう言ってただけでしょ? お姉ちゃんもこれが兵器だと思ってるの? 一九歳の僕が、兵器を作るって思ってるの? 兵器って、人を殺すための道具のことでしょ?」
「そう、よね……」
そのうち馬鹿々々しく思えてきた。
これが兵器なわけがないし、あのハルがそんなものを作るわけがない。
苗木は、命の始まりであるように、チユには思えた。
「ハルは何を表そうとしたんだろう……命のぬくもり?」
ふと、チユはそんなことを呟いていた。
「じゃあ兵器じゃないね」
「でも、ビョークには何て説明すれば……」
「投稿しちゃったこと?」
「うん」
一晩中キーボードを叩いていたのだろうか、とチユは思った。
日記は分厚い。そうに違いない。大勢の人に知ってもらいたい、というハルの言葉は嘘ではないのだろう。その一心で打ち込んだのだ。そんな彼の頑張りを無碍にしたくなかった。
「ビョークには黙ってて」
チユはハルの目を見つめた。眼は、まだ「一」のままだった。
「わかった」
ハルは三秒ほどして応えた。
カーテンを開けた彼の「一」の目が、日差しを受け黄金色に輝く。
角と瞳孔以外は人間だ。彼は山羊から人間に戻ろうとしている。
ハルがもうすぐ記憶を取り戻すような気がした。今はその途中なのだろう。
あの日、姥捨照小学校のグラウンドで手放したハルの手の感触が蘇ってきた。あの手を離さなければ、とあれから何度も思った。この日記は、ハルがしたためたものだ。あの日のハルと繋がっていられる唯一のぬくもりだ。
あくまで兵器に成り得るのであって、すべての教典が兵器というわけではないのだろう。チユはそう解釈した。
ハルと同じ考えだ。これは兵器ではない。ハルのぬくもりだ。
〇
三カ月が過ぎた頃、情報共有サイト〈浮遊島へようこそ〉のアカウント宛に一通のダイレクトメッセージが届いた。
差出人は、『サークルカンパニー編集部』。
巫女紙を作っている企業だ。畳通りにビルを構えている。
件名欄に、『書籍化の打診について』とあった。
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