第13話 “山羊の悪魔”
翔二郎が目を覚ましたとき、壁にかかった丸時計の針は、夜中の三時を指していた。
母親は傍の椅子に座っていた。そのまま上体だけ翔二郎のベッドにうつ伏せに倒れ、腕を枕代わりにして眠っていた。疲れているのだろう。
彼女は、翔二郎の左手を握っていた。
翔二郎の意識と記憶は、はっきりしていた。正午過ぎに訪ねてきた知らない若い男女。傍に立っていた、フードとサングラスで顔を隠した子どもの姿も覚えている。
妙な人たちだった。
あのホテル火災のことを知りたがったのは、事故直後この病室にやってきた週刊誌記者くらいだ。
気になることが一つあった。あの子どもだ。
一瞬、彼のサングラスの奥に、「一」のような目が見えた気がした。そのあとのことはよく覚えていない。テレビにマーコールの角が映っていたのは覚えている。気がつくと今だった。
首すら動かない。翔二郎は目だけ動かし、カーテンの隙間から夜を見た。
目の周りの筋肉に疲れを感じると、天井へ移した。
この病室の天井は、
彼はもう七年間、気にしている。
カツン、カツン──。
誰かが
看護師の靴音とは違う、乾いた音だ。夜はいつも無音のはず。
音は次第に、この病室へ近づてきているようだった。
扉の向こうで、音が止まった。
ゆっくりと引き戸が開いたのがわかった。
コツ、コツ──。
誰かが部屋に入ってきた。
気配が足元で止まった。彼は息を潜め、天井の溝を見た。
何も起きないまま数分が過ぎ、安心しかけたときだった。
カツン、コツン──。
音が再開した。音は右へ行って、窓側の壁とベッドの間を歩いて近づいてきた。
翔二郎は目をぐっと開いた。腕がぬうっと伸びてきて彼の口元を押さえた。
それは山羊だった。子山羊だ。角がない。まるで人間のように、二足でベッド脇に立っている。山羊の右手に、文化包丁が見えた。
彼の悲鳴は押し込められた。凄まじい力だ。鼻は密閉されていないため息は吸えるが、声は出せなかった。
山羊の「一」の目が、こちらをじっと見ている。視界にちらつく刃物が、そのうちすうっと近づいて翔二郎の首筋に触れた。殺される。彼は目を瞑った。
しばらくしても痛みはやってこなかった。
口元を押さえていた手が離れてゆくのがわかり、彼は目を開けた。
山羊が、ベッドでうつ伏せに眠る翔二郎の母親を見ていた。
コツン、コツン──。
山羊がベッドをぐるっと回って、母親の傍に立った。「一」の目でこちらを見ながら、母親の首筋に刃を当てた。
「ヘル、デ……」
首を絞められたような声で翔二郎は言った。
母さんヘルデがいるよ──。
そう伝えようとした。
起こそうとした。叫びたかった。だが声が出ない。
すうっと静かにやわらかに、刃が母親の首のなかへ入ってゆく。暗い液体が、ぷくっと溢れ出た。翔二郎の目から涙が流れた。その刃は、自分の心臓を刺すようだった。
彼の左手を握っていた手に力が入った。
気づいた母親がシャコのように首だけを上げた。口元が
山羊が包丁をゆっくり抜いた。がくん、と母親の顔がベッドへ埋もれた。
翔二郎は、見ることしかできなかった。固定された頭から飛び出しそうに目を剥いて、ひょっとこのような口元で、吸って吐いてを繰り返した。
山羊を睨んだ。ぶちぶちっと眼球まわりの筋が切れて、裏返るのではないかというくらいに。
声を出そうとすると吐息になる。強く息を吹きかけるような声を出した。唾が飛んだ。
手の付けられていない病院食が、ベッド脇のテーブルにあった。ポリプロピレンの半透明の、円形のフードカバーがかけられている。
フードカバーを剥がすと、山羊はそれを翔二郎の顔に被せた。
ふーふー。
室内に翔二郎の呼吸が鳴る。フードカバーが吐息で曇る。
コツン、コツン──。
踵の軽い音が離れてゆく。部屋の扉の閉まる音がした。
廊下の遠くに音が消えていく。
翔二郎は、フードカバーを曇らせつづけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます