二章:山羊の教典
第1話 “廃ホテルとカラスと山羊”
そのホテルは廃墟だった。
建物が黒く焦げている。
つい先ほどまでなかったものだ。
それがある丘の頂上に、蜃気楼のように浮かび上がった。
夕日の落ちる頃だった。
ホテル前の丘陵地帯で、山羊の群れが食事をはじめた。
ここは彼らの食卓だ。
踏みしめる一つ一つ音が、風の止んだ頂上に静かに鳴っている。
ときおり目を閉じるようにして、美味しそうに岩の苔にまで口を伸ばす。
二足歩行の山羊が一匹、ホテルの玄関口に立っていた。
それら仲間の様子を眺めている。
草の香りは感じるが、彼らのように食べる気にはなれない。
これは食事とは呼べない、と彼は思った。
「きみはなぜ後ろ脚で立っているの?」
山羊の足元に、火傷を負ったカラスが一羽いた。
「きみたちはすべて四つ脚で歩く。なのにきみだけ二本脚だ。どうして?」
わからない、と山羊は答えた。
彼はそれまで他の山羊と同じように四肢で歩いていたはずだった。
だがある日を境に前触れなく、二本脚で歩きはじめた。
できるようになったのか、元々できたのかはわからない。
それが他の山羊に、人のそれと彷彿させた。
「それでは人間みたいじゃないか」
「にんげん?」
「町が見えるだろ。丘を三つほど下った先に町がある。そこに、二本脚の生き物たちが暮らしている」
山羊たちが気味悪がっているからやめたほうがいい、とカラスは忠告した。
「そこには僕と同じように歩く山羊がいるの?」
「山羊じゃない、人間だ。彼らはあぶない。ここは丘であること以外は何もない。何もないと思っているから、彼らは町からこちら側へは来ない。だがきみたちがここで暮らしていると知れば、狩りにくる」
「かる?」
「殺しにくるということだ。きみたちは食べられるか、家畜にされてしまう」
さあ、みんなに
そういうとカラスは、ホテルの上階へ飛んでいった。
彼は玄関口に取り残された。
そのうち食事を終えた山羊たちがホテルへ戻ってくる。
邪魔になる前に、彼はポーチ柱の傍へ移動した。
ずらずら群れが列をなし、エントランスへ入ってゆく。
みんな彼を無視した。
気味悪がって、彼に声をかけるものはいない。
視界には入っているはずだ。
彼は夜景を眺めた。
遠くの平地でオレンジ色の無数の粒が光っている。
あれが人間の住処か。
ホテルは、地下への階段が水没していた。
二階はどの扉前も瓦礫で埋まっている。
三階へ向かうと四階への階段は崩れている。
一室だけ無事な部屋があった。三階のパーティースペースだ。
八四坪の室内は天井が二・八メートルあり、大量の山羊たちが寝床とするには十分な広さだった。
ある方角のみ一面窓ガラスで、丘を見渡すことができる。
夜景も眺めることができた。
朝陽が差し込みやすく、朝にも気づきやすい。
パーティースペースの入口に彼が見えると、山羊たちはぴたっと静かになった。
二足歩行で前脚が自由なのだから閉めやすいだろう──。
といつからか扉を開閉するのが彼の役割となった。
気味悪がるのだが、山羊たちは彼に扉を閉めさせた。
いつからだろうか、と彼はふと思った。
大量の山羊の「一」の眼が、彼を凝視したまま固まっている。
彼は両開きの扉を閉め、三階フロアを下りた。
それはエントランスへ下りたときには見えていた。
何事だ。
外が騒がしい。
その騒がしさがホテルへ近づいてくる。
彼は外へ出た。
ぼやけたオレンジの灯りが、横に広がって丘を上がってくる。
ひとつひとつ順に姿が見えた。
二足歩行の、ほっそりとした生き物たちだった。
これが人間か、あのカラスの言っていた通りだ。
彼は目を見張った。
だが驚きはなかった。
初めて見るはずが、人間の姿形を受け入れていた。
初めてみるのに、初めから知っているような感覚だ。
「なんだこいつ、立ってるぞ」
人間たちから声がした。
「足は山羊だぞ」
「見ろ、毛深いが手は人間みてぇだ」
だんだんと嬉しさがこみ上げていた。
パーティースペースの山羊たちは、彼を許さない。
二足歩行だから? 自分たちと違うから?
あの火傷を負ったカラスが忠告した通りだ。
山羊は四肢で歩かなければならない。
二足で歩き、手が人間ならそれはもう山羊ではない。
山羊でも人間でもない何かだ。
彼は嬉しかった。
自分と同じように、二足で歩くことのできる生物に出会えたことが。
それもたくさんいる。
松明を手に持ち、
だんだんとそれが物騒であることに気づくと、彼の表情は強張った笑顔をしていた。
「なんだ、このちっせぇヘルデみてぇなのは」
「殺せ。四つ足だろうが、二足だろうが、焼いて口にいれりゃ同じだ」
「だな。うし、殺すぞ」
うおおお──獣の咆哮のような声を人間たちが上げた。
武器を持った腕を掲げ、こちらへ走ってくる。
「なんで……」
彼はぼそっと誰にも聞こえない声を漏らした。
「なんだこいつ、素早いぞ」
人間が言ったように、彼は小さなヘルデのようだった。
大人の男たちの頭や肩を踏んづけ、人間たちの頭上を飛び越えてゆく。
すべての猛攻を潜り抜けた。
開いていたスペースを見つけ、そこへ着地すると人間たちからやや距離をとった。
うおおお──獣の咆哮のように彼は泣き叫んだ。
強張った笑顔で涙を流した。
人間のように。
なんで僕ばっかり……。
誰にも受け入れられない。
山羊たちにも、人間たちにも。
周りを囲まれていた。
ある先頭に女の姿を見つけると、彼は泣き声をやめた。
「イカルガ……?」
彼女は驚いたような顔をして彼を見た。
「あの山羊、あんたを見てねぇか?」
隣の男が女に話しかけた。
知り合いか? と訊ねられ、彼女は首を振る。
彼は走った。
ヘルデのように素早く、地を滑るように。
そして女へ飛びついて、抱き着いた。
「イカルガ!」
また同じ単語を口にしていた。
イカルガ──。
それが何であるのか、彼にはわからなかった。
気がつくと頭に浮かんでいた。
彼女は硬直していた。
彼は彼女の顔を間近に見た。
「イカルガ?」
「どうして……」
「チユさん、お知り合いですか?」
隣の若いちんちくりんな男が訊いた。
彼女は驚いた顔のまま首を振った。
「僕だよ、ハルだ」
山羊は言った。
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