「心霊スポット」
秋犬
幽霊なんているわけないのに
(おばさんって言うけど、誰だっておばさんになるのに!)
娘が起きてくる前に朝の五時から十五分程度、近所をランニングしようと和美は家を出た。初夏を過ぎた頃の早朝の住宅地はまだ静かであったが、和美には心配事があった。
「今日は誰もいないといいけど……」
和美の家の近所には、心霊スポットと呼ばれる空き家があった。一時期は肝試しと称して、遠方からオカルトファンや冷やかしの若者が深夜にたむろしていた。更に空き家に関して面白半分の記事を書こうという記者も無神経に住民に取材するなどして、この住宅地一帯の治安が全体的に悪化していた。年頃の娘を持つ和美は迷惑だと思う反面、その原因となった事件を思い出すと気分がとても沈んだ。
和美は少し走ったが、疲れたのでまずは走るのではなくウォーキングから始めることにした。澄み切った空気の中を歩くのは気持ちが良かったが、例の家が見えてきた辺りで、和美は湧き上がる嫌な感情を必死で押しとどめようとした。
(別に、ただの近所じゃない。緊張しなくていいのに)
足下から湧き上がる不安を押しとどめて例の家の前を通りかかったとき、和美の心臓は縮み上がった。
(誰かいる!?)
空き家のはずのその家の玄関前に、誰かが座り込んでいた。先日も深夜に若者が騒いで警察が来ていたので、そのような人がいるのかと和美は冷や汗が流れるのを感じた。
しかし、空き家の前で座り込んでいた人物を和美はよく知っていた。
「しょうくん、どうしたの!?」
和美が話しかけた少年は、かつて娘の同級生であった。同じ年の子供がいるということで、和美はこの少年の母に大変世話になっていた。
「待ってる」
「待ってるって、誰を待ってるの?」
「お母さんが帰ってくるの、待ってる」
そう話す少年の視線は虚ろで、声に力はなかった。風体も黒いカーディガンを羽織っていたが、パジャマ姿に素足でサンダル履きという出で立ちは入院患者のようであった。
和美はまず、この空き家から少年を引き離すことを優先させることにした。
「じゃあ、おばちゃんちで待ってよう? お母さんには、連絡しておくから」
「お母さん、来る?」
「うん、きっと来ると思うよ」
和美は少年を連れて急いで家へ戻った。そしてまだ寝ていた夫を叩き起こし、どこへ連絡するべきなのかを協議した。「母親に連絡する」と少年には告げたが、和美は警察へ電話をかけた。事情を話すと、警官がすぐに来るというので和美は少しだけ安心した。
「ねえ、本当にお母さん来る?」
和美の家の玄関に座り込む少年は、不安げに尋ねる。本来であれば高校に通っている年頃であったが、まるで幼い子供のように少年は震えていた。その姿を見て、和美は胸を痛める。
――あなたのお母さんはね、もう亡くなったのよ。
何度も和美はそう言いかけて、そして口をつぐんだ。
約一年半前に起きた凄惨な事件を和美は思い出す。五人一家のうち四人が殺害され、一人が重傷を負った出来事は忘れたくても忘れられるものではなかった。急に命を絶たれた親子が四人、そして一人生き残った当時中学生の末子のことを考えると和美の胸も張り裂けそうなほどであった。娘の同級生であった末子は親戚の家に引き取られたと聞いていたが、積極的に彼がどうなったのかを調べるほど、和美の心に余裕はなかった。
「もう少し、おばちゃんちで待っててね」
それ以上、和美は少年にかけられる言葉が思いつかなかった。命は助かったかもしれないが、彼の心が深く傷ついているのは一目瞭然である。彼が娘と元気にランドセルを並べていた頃を思い出し、和美は非情な現実に目眩がしそうであった。
程なくして、警察と一緒に少年の叔母を名乗る女性がやって来た。朝起きたら行方が知れなくなって、慌てて探していたのだという。叔母の家から歩いて数時間はかかる距離を一人で歩いてきたのだろうと聞いて、和美は更に胸が潰れる思いだった。
「しょうくん、おばちゃんと行こう?」
そう促されて、少年は警官と一緒にパトカーに乗せられた。その最中少年は何事かを喚いていたが、和美はその言葉の意味をほとんど理解することができなかった。ただ、「嘘つき」という言葉だけが深く和美の胸に飛び込んだ。
「何、何の騒ぎ?」
パトカーが玄関前からいなくなってから、和美の娘が起きてきた。これから制服を着て、高校に向かうはずの自慢の娘だった。思わず和美は娘を抱きしめて泣いた。一部始終を見ていた夫も目を赤くしていた。
何故、あの人たちだったのだろう。
和美は泣きながら、あの日のことを思い出していた。そして最近ようやく嫌なことを忘れ始めたのに、と少年の出現を少し恨めしく思った。そして娘が無事でよかったという自分勝手な感情にも嫌気がさした。何もかもが疎ましかった。
その日から、何度か和美は空き家の前で少年を見つけることがあった。しかし連絡先を交換した親戚の家に連絡をするだけで、和美から彼に声をかけることはなかった。
しばらくして、空き家は取り壊されて更地になった。和美の娘は大学生になり、就職をして家を出て行った。更地の前を通る度に、和美は彼に安寧が訪れていることを願わずにはいられなかった。
〈了〉
「心霊スポット」 秋犬 @Anoni
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