苦味と余韻 第一話

午前十時の『Les Variétés』

駅前ビルの三階。

くたびれたエレベーターを抜けた先にある、知る人ぞ知る喫茶店。

重たい木の扉を押し開けると、空気がひと呼吸、静かになる。

高い天井、控えめなジャズ、深く沈む椅子と、ぴかぴかに磨かれたカップたち。

棚にはコーヒー豆、紅茶の缶、シロップの瓶が並び、壁には手描きの“本日のメニュー”。


この店の特徴は、メニューの幅。

クラシックなブレンドから季節限定の気まぐれティー、そして日替わりのスイーツまで。

“選べなくても選べる幸せ”がある、そういう場所だ。


でも僕は、いつも「ラントブレンド」を選ぶ。

たくさんある中で、毎回これを選ぶのは、余裕じゃなくて癖だ。

それは、この店でいちばん“考えごと向き”のコーヒーだから——というのは、建前で。


本当は、選びたくないだけだ。

朝から何かを決めるのが、どうしようもなく億劫で。

メニューとにらめっこする時間すら「今日こそは……」そんな思考で頭の中は埋まってる。


ラントブレンドは、ゆっくり抽出されて、苦味が強くて、やや地味な味。

つまり僕に似ている。

それを“自分で選んだ”と思えば、少しだけ前向きな気がする。

……それだけの理由で、ここに来るたびに同じコーヒーを飲んでいる。


この店の空気は、いつも少しだけスローだ。

言葉が落ちてくるまで、待つ余白がある。

……でも残念ながら、待てば来るとは限らない。


「……書けないな」


このセリフ、たぶん今週三度目。

出てきた瞬間、自分でちょっと恥ずかしくなる。

でも、頭の中ではもっとひどいことが起きてる。


カーソルは点滅。僕の中の登場人物は沈黙。

ページの上で、物語はいまだ無言のままだ。


“ありがとう”って一言。

それだけなのに、書けない。

キャラが言いたがらないし、僕が言わせたくない。

そのせいで、台詞が立ち往生している。


「……」


考えの行き止まりにぶつかった瞬間、

焙煎の香りと、カップの揺れるかすかな音がすぐそばに落ちてきた。

見なくてもわかる。いつものタイミング、いつもの彼女。


「ラントブレンド、お持ちしました」


何も解決してないのに、なぜか少しだけ肩の力が抜ける。

この人はいつも、セリフより先に“空気”を届けてくる。


カップの向こうにふわりと香りが広がる。

温度も重みも、ぴたりと自分に合わせてくるあたりはさすがだ。


「今日も、同じでよかったんですか?」


「せめてコーヒーくらいは、急がないで飲みたいからね」


「そう思って抽出もゆっくりにしておきました」


「……っていうか、それ、遅れただけじゃないの?」


「うふふ。さあ?どうでしょう」


そう言って彼女は、静かにカップを置く。

空気が和むでもなく、盛り上がるでもない。

ただ“ちょうどよく”落ち着くこの感じが、なぜか悔しい。


「ふーん……進んでないですね、シナリオ」


声と同時に、画面の端に視線を感じる。

彼女が、カップを置いたついでとばかりにノートパソコンを覗き込んでくる。


「人の原稿、勝手に見ないでくれ」


「え、見ちゃダメでした?でも気になるじゃないですか、“ありがとう”で止まってたら」


「うん、まあ……言葉にされると地味に効くんだよね、それ」


僕は小さく息を吐いて、カップに手を伸ばす。

香りは落ち着いてる、味もたぶんいつも通りに整っている。

でも、どこか芯が引っかかってるこの感じは、きっとコーヒーだけでは消せない。


「……このキャラさ、“ありがとう”って言いたいのに、どうしても言えないんだよ」


「ありがちですね」


「うわ、その言い方いちばん刺さる……」


「“ありがち”ってことは、ちゃんと人間っぽいってことですよ……誰でも一度くらいは、うまく感謝を伝えられなかったこと、あると思いますし」


彼女は、ちょっとだけ口元をゆるめて言った。

コーヒーと同じで、温度は高くないけど、ちゃんとあたたかい。


「で、それをセリフにしようとすると?」


「嘘っぽくなる、書いた瞬間に“違う”ってわかるんだよ……キャラが否定してくる」


「じゃあ——言わせなきゃいいんじゃないですか?」


「……は?」


僕が眉を上げると、彼女はすこしだけ首をかしげて、カウンターの方をちらりと見た。

そして、ふたたび僕に視線を戻しながら、淡々と、でもどこかやわらかく言う。


「“ありがとう”って、言葉にしなくても、ちゃんと伝わるとき、ありますよ」


ラントブレンドの湯気が、ふわりと揺れる。

彼女の言葉はそれに似て、熱くもなく、冷たくもない。

ただ、ちょうどいい温度で届いてくる。


「たとえば……毎朝、同じコーヒーを黙って淹れて、そっと差し出すだけでも——

“今日も見てますよ”“変わらずここにいますよ”って、伝わったりしません?」


僕は言葉を失い、持っていたスプーンを静かに皿の上に戻した。

まるで、その音で思考を止めようとするみたいに。


——なるほど。

語るよりも、示すこと。

無理に言葉を置くより、ただそう“在る”こと。

きっとその方が、静かに、深く届くのかもしれない。


「……それ、君の経験?」


少し遅れて出たその問いに、彼女は肩をすくめた。


「さあ?どうでしょう」


そう言って、エプロンのすそを揺らしながら、彼女は僕のテーブルを離れていった。

振り返らないその背中には、不思議と清々しい潔さがあった。

あとに残ったのは、コーヒーの香りと——言葉にはならない、ささやかな温度だけ。


僕はもう一度、ラントブレンドに口をつける。

苦味は変わらない——でも、感じ方は、少しだけ違っていた。


カーソルの点滅が、わずかにリズムを変える。

まだページは白いままだ。

けれど今日は、最初の一文を消さずに済みそうな気がしていた。

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