苦味と余韻 第二話

午前十時の『Les Variétés』

駅前ビルの三階。

まだ少し眠っている店内から流れるジャズは、控えめに音をくゆらせる。

カップとカトラリーの奏でる音が、店内の輪郭を描きはじめる。

この時間帯の朝の光は、角度も温度もやわらかい。

静けさを邪魔しないように、窓越しにそっと降りてくる。


私は、静かな音だけを頼りに、コーヒーを淹れている。

「ラントブレンド」——あの人の“いつもの”だ。


サイフォンの丸いガラスの中で、湯がくるくると踊っている。

火と水と豆が、順番に言葉を交わしているような音がする。

焦るとすぐに機嫌を損ねるから、こちらも丁寧に、静かに向き合う。

そうしてやっと、一杯ぶんのコーヒーが出来上がる。


抽出を待ちながら、ちらりと視線を送る。

いつもの場所には、いつものあの人。

今日も眉間にしっかり皺を刻んで、画面を睨みつけている。

そのくせ、指はまったく動かない。


——たぶん、今日も進んでない。


“ありがとう”の隣で、カーソルがまだ点滅している。

進まない物語と、緩む気配のない彼の眉間。

どっちが根負けするか、勝負はまだ続いているらしい。


カーソルとにらめっこする彼を見ていると、つい笑いそうになる。

でも我慢——笑われるの、きっと嫌がるタイプだから。


そっとカップを手に取り、テーブルへ向かう。

この店で先に届くのは、声じゃなくて空気。

だから、足音も気配も、やわらかく。


「ラントブレンド、お持ちしました」


その顔に、ふっと緊張が抜けた気配があった。

呼吸が少し深くなって、目の奥の強張りがほどけていく。

きっと、助かったと思ってる。

でも彼は、それを言葉にしない。


彼の“ありがとう”は、いつも言葉にならない。

カップを受け取るときの、さりげないうなずき。

香りにふと目を細める、そのわずかな間。

——それが彼なりの“ありがとう”だ。


「今日も、同じでよかったんですか?」


いつものように、私は軽く問いかける。

冗談とも本気ともつかない調子で、空気をすこしだけやわらげるように。


彼は、少しだけ肩の力を抜いて、ゆっくりと視線を上げる。

笑うでもなく、言葉を返すでもない。

けれど、その目元がわずかにやわらぐ。


たったそれだけの、なんてことのないやりとり。

けれど、その沈黙には、確かな温度があった。


「“ありがとう”って、言葉にしなくても、ちゃんと伝わるとき、ありますよ」


香りとぬくもりと、一拍の間。

その沈黙が、テーブルにそっと広がる。


……でも、私は思う。


届いているのは、わかってる。

言葉にしなくても伝わることがあるってことも、わかってる。


だけど——ときどき、それだけじゃちょっと足りないなって思う瞬間がある。

たとえば、カップを置いたあとの沈黙みたいに。

何かは届いてるはずなのに、あともう一歩だけ、近づけたかもしれないと思うとき。


そんなときに、彼はぽつりと問いかけた。


「……それ、君の経験?」


なんてことない口調なのに、妙に的を射てくる。

ふいに投げられたくせに、ちゃんと芯を捉える。

——まったく、この人はたまにこういうズルい球を投げてくる。


私は笑って、いつものように肩をすくめた。

「さあ?どうでしょう」

少し引いた声でかわしたけれど、胸の奥に残ったのは、彼の問いじゃなくて、自分の答えのほうだった。


“言わなくても伝わる”

そう信じて、そう振る舞ってきたけど——

本当は、“言わなくてもいい”っていう都合のいい言い訳を、自分が選んでたのかもしれない。


カウンターへ戻るあいだ、足音が妙に気になった。

たかが数歩、されど数歩。

コーヒーの香りの中で、頭の中だけがちょっと賑やかだった。


スチームの音が弾けて、ジャズがタイミング良くフレーズを切り替える。

それに乗じて、ひと息。

考えすぎてないふりをしながら、思考だけは忙しく転がっていく。


ふとカウンター越しに見ると、

彼の背中がさっきより少しだけやわらかく見えた。


書けたのか、気分のせいか、それはわからないけど——

なんとなく空気が、少しだけ和らいでいるのは確かだった。


――――――――――


ジャズがいつの間にか、違う曲に変わっていた。

彼はまだ画面と向き合っていて、カーソルは、少しだけ前に進んでいるようだった。


私は静かに新しいカップを用意する。

さっきより、少しだけ気持ちのいい手つきで。


「おかわりです。ラントブレンド」


そう言ってカップを置いたとき、

彼はほんの一拍だけ間を置いて、目を上げた。


「……頼んだっけ?」


「いえ、サービスです。今なら感謝の言葉ひとつで受け取れますよ」


「……ずいぶん強気な価格設定だね」


「ほら、早くしないと冷めちゃいますよ」


「じゃあ……」


彼はほんの少し笑って、ほんの少しためらって——


「……ありがとう」


その声は、なんてことのない調子だったけど、

胸にすっと差し込んでくるように、まっすぐ届いた。


——ありがとう、か。


不思議なもので、毎朝のようにコーヒーを出しているのに。

こうして言葉にされるのは、ちょっとだけ特別だ。


言わなくても伝わる——と思ってた。

思ってた、けど。


言われたら、それはそれで、嬉しい。


「どういたしまして」


私は、静かに笑った。


それだけ言って、くるりと背を向ける。

カウンターに戻る途中、頭の中でそっとつぶやく。


——言葉って、悪くない。


でも、そのタイミングも、きっと彼なりなんだろう。

言葉の扱いに、変な誠実さがある人だ。


私は背中を向けたまま、感謝の余韻をポケットにしまう。

そして、いつもの調子でカウンターへ戻った。


視線の端で彼がキーボードを叩くのが見える。

今朝までうんともすんとも動かなかった指は、今はちゃんと走っている。


彼の物語が、ようやく静かに歩きはじめた。


もう一度、カウンター越しに、そっと彼の席を盗み見る。

画面の端に浮かぶ文字のひとつだけが、目に入った。


「ありがとう」


彼のキャラクターは、どうやら“ありがとう”を言えたらしい。

小さな文字が、そのことを静かに教えてくれる。


——やっぱり、言葉にするって、ちゃんと意味がある。


届かせる手段はいろいろあるけれど、

“ちゃんと言う”って、それだけで十分価値がある。


私はカップの端をそっと指でなぞりながら、小さくつぶやいた。


「思ってるだけじゃ、もったいないのかもしれませんね」


ジャズはまだ、気まぐれなリズムを奏でている。

止まっていた物語は、静かに歩きはじめた。


私は、新しい一杯の準備に取りかかる。

すこしだけ姿勢を正して、気持ちもあらたに。


窓の外には、いつのまにか昼の気配が差し込んでいた。

カップとカトラリーが、小さく音を立てる。


——午前の『Les Variétés』は、まだ静かだ。

けれど、そこには確かに、小さな言葉の余韻が残っていた。

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注文が多い喫茶店『Les Variétés』 東本西創 @wevi2460

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