君とパフェと午後3時 後編
午後三時の『Les Variétés』に、今日もふたりは揃っていた。
いつもの席、いつもの距離感、いつもの注文。
そして、いつものように、グラスが置かれるのをなんとなく待っていた。
テーブルの上には、まだ何も来ていない。
ただふたりのスプーンだけが、所在なげに紙ナプキンの上で静かに横たわっていた。
彼が水のグラスを指先でくるくると回す。
彼女はそれを見て、何も言わずにグラスの底を見つめる。
沈黙が重くなる手前。
そのちょうどいい隙間を埋めるように、足音が近づいてくる。
「お待たせしました。苺とバナナのスペシャルパフェ——ひとつです」
……
……
……ひとつ?
ふたりの視線が、店員の手元に集中する。
置かれたのは、確かに例のパフェ。
ただし、ワン・オンリー。
「え……ふたつ頼みましたよね?」
彼が戸惑いながら言うと、店員が申し訳なさそうに頭を下げる。
「あの……すみません!……実は本日分がこちらで終了でして」
店員はグラスをテーブルにそっと置きながら、ぺこぺこと申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして……ほんとうに、すみません……」
ふたりが無言でそのパフェをじっと見つめているあいだに、店員は「お邪魔しました」という雰囲気だけを残して、音もなくバックヤードの方へ引っ込んでいった。
残されたグラスと沈黙が、どちらに先に口を開かせるかを競っていた。
今日もグラスの中では、苺もバナナがいつも通り輝いている。
——問題なのは、その分量である。
「さて、じゃあ……どうする?」
「……食べていいわよ」
「俺は別に……てかお前こそ食べろよ。どうせ苺食べられないと機嫌悪くなるだろ?」
「ならないわよ……ちょっとイライラするだけで」
「……それを世間では機嫌悪いって言うんだよ」
「……」
「……」
一瞬の沈黙。
「じゃあ……半分こするか?」
「……は?交互に食べるってこと?小学生?」
「じゃあ上下に分ける?お前が上で俺が下とか」
「……それだと私が苺全部さらった後、バナナ地帯を黙々と掘るあなたを見てるだけよ」
「それ、わりとシュールだな」
「だいたい、どうせバナナ全部食べるでしょ?」
「ちゃんと残すよ……たぶん」
テーブルの上で、ナプキンが擦れる音がひとつ。
彼女が何も言わずにスプーンを差し出したその動きが、合図のようだった。
ふたりは自然に、グラスを真ん中に寄せて向かい合う。
小学生方式の“半分こ”である。
「じゃあ、先攻もらうわ」
「どうぞ。“苺の女王”様」
彼女は苺をすくいながら、ちらりと彼の顔をうかがう。
「……なによ、その顔」
「……今、“苺は私のもの”って顔してた」
「してないわよ。“バナナだけ見てる男”の顔してるくせに」
「それは……してたかも」
彼女がスプーンをくるりと回す。
「はい、どうぞ。“バナナの騎士”さん」
「……そのネーミング、雑じゃない?」
「“苺の女王”よりマシでしょ」
ふたりのスプーンが、グラスの中で静かに交差する。
まるでチェスのように——
手番は守るけど、勝つ気はない。
苺とバナナの盤上に、ふたりは黙って次の手を探している。
終わらないゲーム。
それが心地いいと、お互い少し気づいていた。
「……苺とバナナって合うわよね。思ってたより」
彼女がぽつりと言う。
「言ったじゃん。バナナはだいたいのものに合うって」
「合わせてるのは苺の方かもよ」
「いや、合わせさせてるのがバナナなんだよ」
「……どっちでもいいけど、今たまたま調和してるだけでしょ」
「まあ、いつもはお互い真っ先に食べちゃうからな」
「そういえば……そうだったかしら?」
そう言って笑った彼女の目元に、どこか迷いのない明るさがあった。
少なくとも、今までよりは。
「……バナナ、あとひと切れ」
「そっち食べていいよ」
「……じゃあ、遠慮なく」
彼女が最後のバナナをさらう。
「ほんとに遠慮ないな」
「さっき“食べていい”って言ったのは誰?」
「俺。だけどちょっと想像より潔かったからびっくりしてる」
ふたりの笑いが、グラスの底にやさしく響く。
最後に残ったのは、バニラアイスと、苺とバナナの記憶だけ。
味は混ざって、もう何の主張もない、ふたつの真ん中。
「これ、どうする?」
「……半分こ、しとく?」
「また小学生方式?」
「今さら大人ぶっても仕方ないでしょ」
ふたりは、スプーンを同時に差し出した。
そして——ふたりはひとくちを半分こした。
それは、苺のような鮮やかさも、バナナのような優しさもない。
ただのひとくちの、名もない甘さだった。
けれど、その曖昧さがふたりには心地よく。
どちらもそれを“自分のもの”にしようとは思わなかった。
ふたりで食べた、最後のひとくち。
それは、苺でもバナナでもなく——ふたりの味だった。
――――――――――
その日も午後三時の『Les Variétés』 は、静けさに包まれていた。
けれど、そこに座るふたりの空気だけが、いつもよりほんの少しだけ、違っていた。
重厚な木の扉が開く音。
その直後、店員がグラスをひとつだけ手に現れる。
「今日、混んでた?」
「いや、いつも通り」
「じゃあ、私が遅れたのか」
「三分遅れた。いつも通り」
「なによそれ、やさしくない」
「言い方の問題だな」
そんなふたりのやり取りをさえぎるように、店員がやってくる。
「お待たせしました。苺とバナナのスペシャルパフェ——ひとつです」
『Les Variétés』の常連客は知っている。
最近ではこれが、ふたりの“いつもの”になっていることを。
彼がグラスを中央に寄せる。
彼女がスプーンの片方を彼の前に置く。
「先攻、私ね」
「はいはい、どうぞ“女王”様」
「バナナはそっち担当よ“騎士”さん」
彼女は苺をすくいながら、ちょっと得意げな顔をする。
彼はバナナを探してスプーンを沈める。
交互に、交差しながら、ひとつのパフェが静かに減っていく。
それが、もう三度目だった。
「……今週のバナナ、ちょっと若くない?」
「苺も微妙に酸味がキツい。反抗期かも」
「どっちも素直じゃないのね」
「まるで誰かみたいだな」
「やめなさいよ」
ふたりのやり取りは、甘さと皮肉がちょうど半分ずつ。
それが、このカフェの午後三時にはちょうどいい。
「……ねえ、次の限定、何パフェか知ってる?」
「知らないけど、出たら食べるだろ。たぶん」
「それって……ふたりで?」
「ひとつ、な」
パフェの中身は、すでに見えないくらいに混ざり合っている。
苺の赤も、バナナの黄も、アイスの白も、境目をなくして、
最初からそうだったみたいな顔をして、グラスの底に広がっていた。
彼女がスプーンをかざして言う。
「最後のひと口。どうする?」
「そろそろ、ルール作るか?」
「でも、作ったら面白くないでしょ」
「じゃあ……また小学生方式か?」
「そ、安心と信頼の半分こにしましょ!」
スプーンが二本、同時に動く。
音もなく交差しながら、その甘さをふたりで分ける。
それが苺の味だったのか、バナナの味だったのか。
たぶんもう、どうでもよかった。
午後三時の『Les Variétés』
窓際の席にいるふたりの前に残ったのは、空になったグラスと——名前のつかない、ちいさな関係だった。
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