注文が多い喫茶店『Les Variétés』
東本西創
君とパフェと午後3時 前編
午後三時の『Les Variétés』は、静かでおしゃれで、ちょっと気取っている。
駅前ビルの三階。
くたびれたエレベーターに揺られて辿り着くそのカフェは、喧騒から逃げ出した“大人ぶった人々”の避難所だ。
木製の重たい扉を押すと、そこは少し空気がやわらかい。
高い天井にひかえめなジャズ、落ち着きがすぎる椅子。
棚には珈琲豆やら紅茶やらがずらりと並び、こちらを出迎える。
ここ——喫茶『Les Variétés』の売りは何といってもメニューの幅だろう。
クラシックなブレンド、季節限定のハーブティー、気まぐれなスイーツ、そして日替わりパフェ。
“選べなくても選べる幸せ”という名の誘惑がそこにある。
——が。
そんな喫茶店で今日も、「いつもの」を迷いなく選ぶ、ふたりがいた。
「お待たせしました。スペシャルパフェ、ふたつです」
店員の流れるような手つきでグラスが置かれるやいなや、そこに座っていた女はスプーンを拾い上げ我先にとパフェへと走らせる。
そこには微塵のためらいはない。
スピード感だけで言えば、もはやアスリートだろう。
その向かいに座る男はその横顔を見て、ひと呼吸おいてから自分のスプーンを取る。
「また同じの頼んだんだ」
「あなたこそ」
「……」
「……」
——沈黙。
それはただ静かに、グラスの中の甘さと一緒に空気に溶けていく。
まわりの客も、新聞をめくる音や、スプーンがカップに当たる音しかしない。
そんな午後三時の静けさのなかで、ふたりの無言はBGMとしてむしろ“馴染んでいる”ようだった。
そして、『Les Variétés』の常連客は知っている。
毎週、午後三時ちょうどに、同じ席で同じパフェを決まって注文するこの“ふたり”のことを。
名前も関係も知らないけれど、ちょっとだけ気になる——そんな物語を
――――――――――
彼らはいつもどちらかが先に来て、「スペシャルパフェ、ひとつ。あ、もうひとつ追加で」と言うのが、お決まりだった。
先に来たほうが勝ち。
とはいえ、何に勝っているのかは誰にもわからない。
ふたり自身を除いて。
「……ピスタチオ、増えた?」
「シーズンだから、って言ってたわよ」
「ふーん」
それだけ。
また、スプーンが静かにグラスに戻る。
パフェには、人を静かにさせる力がある。
無言が続いても不思議と気まずくならないのは、たぶん、お互いにどこまで踏み込むかを、まだ決めかねているからだろうか。
彼女はグラスの縁を指でなぞる。
彼は、苺をすくうふりをして、視線だけで目の前の彼女の表情を盗み見る。
午後三時の再会は、まだ何も始まっていない。
けれど、何も終わってもいなかった。
――――――――――
「またバナナばっか食べてる」
彼女がそう言ったのは、スプーンを口に運んだ直後。
相手のグラスを一瞥もせずに言い当てるあたり、もはや超能力である。
「お前こそ、苺ばっかじゃん」
彼は反射的に返しながら、バナナをひとつ、丁寧にすくった。
「苺は主役。最初に食べるのは当然でしょ」
「主役って……派手なだけじゃん。真の主役は、バナナだろ」
「……は?バナナとか地味な脇役のくせに、調子乗るな」
「地味だからこそ、全体をしっかり支えてんの……それにお前が言う“主役”だって、ただ目立ってるだけじゃん」
「目立つってことは、それだけの覚悟があるってことよ」
「果物に覚悟求めるなよ……」
苺派の女とバナナ派の男の口先の小競り合いは、今日も元気に営業中である。
「ほんと、変わんない……斜に構えてバカにしてくるの」
「お前だって、なんでも“はっきりしてほしい”ってうるさく詰めてくるの、変わってないな」
「……わかりにくいのが悪い」
「そうやってなんでも決めつけるから、逆にややこしくなるんだよ」
「決めつけないと、先に進まないこともあるのよ」
彼の手が止まる。
バナナがスプーンの上でちょっと揺れた。
「……ま、別に変わらなくてもいいんじゃないか。人って、そんなもんだろ?」
「でも、やりにくいんでしょ?」
「……まあな」
ふたりの言い合いは、だんだんとテーマを見失い、もはやパフェの話なのか、なんなのかふたりですら分かっていない。
「ねえ、バナナ……そんなに好きだっけ?」
「いあ……まあ前から嫌いじゃなかったよ」
彼女のスプーンがピタッと止まる。
ソースをまとった苺のひとかけが、グラスの縁で小さく揺れる。
「ずるいわよ、その言い方。好きとも嫌いとも言ってないじゃない……ほんとあなたって責任回避型バナナよね」
「責任回避型バナナって、意味不明すぎるだろ……まあ、見た目は地味でも、いないとしまらないとかってあるじゃん?」
「……それってバナナの話?」
「……さあ?」
ふたりのスプーンが、ほぼ同時にグラスに入って、カチリと鳴る。
そこには言葉にならない駆け引きがひとつ残っていた。
——最後のひと口。
苺でもバナナでもなく、バニラアイスだけがひっそり残っていた。
「……バニラか」
「苺でもバナナでもない、どっちつかずのやつ」
「でも、最後に残るのって、だいたいこういう味よね」
「忘れられそうで、案外ちゃんと残ってる」
「……それってあなたの話?」
「さあ……バニラの話じゃない?」
スプーンがそっと交差した。
誰も手を伸ばさないまま、最後の甘さだけが残る。
席を立つには、もう少し沈黙が必要なようだ——
――――――――――
その日、グラスの中は少しだけ彼に優しかった。
数の上で、バナナが苺を上回っていた。
彼はスプーンを構えながら、心の中の静かな満足感を満喫していた。
でも彼女は苺をひとつすくい睨みつけていた。
どうやらいつもより多めのバナナには見向きもしていいようだ。
「……今日の苺、薄くない?」
「……それって色が?それとも味が?」
「どっちも。なんかこう……やる気がないなって」
「まあ、季節の変わり目だからじゃないか?」
「ふーん……なんだか私たちみたい」
彼女は薄味の苺を口に運び、視線をどこか遠くへ泳がせる。
——沈黙。
ふたりが黙った隙間を埋めるように、店のスピーカーから、
やわらかく古びたメロディが流れてきた。
「あ、このBGM……あのときも流れてなかったっけ?」
「……“あのとき”が多すぎて、正直どれ?って感じよ」
「それもそうか……ほら、最後の旅行。二泊三日の……ずっと雨だったやつ」
「ああ。スプリングがバネバネしてたホテルね」
「そうそう。あの椅子、座った瞬間“ビョン!”って鳴ったやつ」
「まあでもパフェはおいしかったわよね……ここほどじゃないけど」
「……な」
「ふふふ、なんか思い出したら可笑しくなってきちゃった」
その笑い声は小さく、空気の隙間にすっと染み込む。
まるで記憶の奥にこびりついていたものが、少しだけ剥がれ落ちたみたいに。
「ほんとは、あのとき話そうと思ってたの」
「なにを?」
「異動。転勤だったの。半年だけ」
「……初耳」
「でしょ。話したら壊れそうで、言えなかったのよ」
「言わなくても、壊れたけどな」
男の言い方は淡々としていたが、その言葉は、なぜかよく響いた。
「ほんと、何してたんだろうね。私たち」
「ま、頑張ってたんじゃない?……たぶん。どっちも折れずにさ」
「で、共倒れ」
「まあ、うん」
ふたりの視線が、グラスの底に残った最後の一匙を見つめる。
もう苺もバナナもなく、ただのアイスが少し残るだけ。
彼女が言う。
「……バナナ、嫌いじゃなかったわよ」
「だったら食えばよかったじゃん」
「そっちが譲らなかったからでしょ」
「俺だって、苺食べたい日もあったよ」
「言えばよかったのに」
「言ったら、“何いまさら”って顔されるからな」
「……したかもね」
ふたりは顔を合わせて——笑った。
声は出さず、けれど間違いなく、笑っていた。
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