第1章「フォーマルハウトの村娘」③

 山間のフォーマルハウト村を出ると、すぐに険しい山道が現れる。アリエスは用事がない限り村の南の山道に足を踏み入れることはなかったので、蛇行する山道がこれほど急峻で歩きづらいものだとは知らなかった。歩くたびに編み上げサンダルの間を草のふちが掠めて、二人の足に小さな傷をつくった。先導して進むリゲルは、アリエスが無事についてきているかどうか、ときどき後ろを振り返って確認してくれた。

 ――やっぱり、悪い人には見えない。でも……。

 目の前の青年と、昔馴染みの魔術の師匠が敵対関係にある以上、その両方を同時に信じることはできない。その思いがアリエスの判断を難しくしていた。


 それからしばらく歩を進め、少し開けた山中の広場のような場所に辿り着いた頃、二人は作戦会議を兼ねて軽食休憩をとることにした。

「さて。闇雲に進んでも、捜し人が見つかる可能性は低い。まずはここから南に下って、人の多い町に出ることが先決だな。そこで物資調達がてら、それとなく聞き込みを進める」

「王女様を捜すの?」

「ああ。あとは、魔術師だな。弟子のあんたが一番分かってるだろうけど、ルーデスの魔術は強力だ。味方に付いているぶんには心強いが、敵に回った途端に大きな脅威になる。おれはあの夜それを思い知った。あっちは予め計画を立てていて、こっちにとっては不意打ちだったってのもあるが、そのぶんを差し引いても、とても太刀打ちできる相手じゃなかった。それなら、こっちにもそれなりの戦力が要る。出来るだけ強力な魔術師が」

「魔術師か……。私、そういえば、自分と師匠せんせい以外の魔術師がどこにいるのかよく知らないわ」

 フォーマルハウト村の中では魔術師の存在が話題に上ること自体が稀であり、また、アリエス自身も物心がついてから村の外に出たことはなかったので、今までそういったことを知らずに生きてきたのだった。リゲルのほうもそれを聞いたところでたいして驚かず、さもありなん、とばかりに頷く。

「魔術師の人口は元々多くないうえに、昔の魔女狩りや、魔術師の村の焼き討ちで更に数が減ってるからな。相当難しいってことは覚悟してる」

 では、魔術師を探していたリゲルと魔術師である自分が偶然出会ったのは一体どれほどの確率だったのだろうかと、アリエスは密かに考えずにはいられなかった。

「それにしても、正直、もっとゆっくり進むことになるかと思ってた。体力はあるほうみたいだな」

 木の実を口に放り込みながら、リゲルが意外そうに目を丸くする。アリエスは片方のふくらはぎを軽く手で叩いて答えた。

「あの村にいると、みんなそうなるわ。男の子も女の子も、野原を駆け回って育つから。あとは、私の場合は、魔術のおかげでもあるかも。サンダルに簡単な魔術をかけてあるの。風の精霊の力を借りて、少しだけ進みやすくなるようにね」

 そう説明して、さっそくリゲルのサンダルにも同じ魔術をかけてやる。リゲルは試しにその場で動き回ってみて、「ほんとだ、ちょっと軽くなった」と喜んだ。

「魔術って、いろんな使い方があるもんだな」

 自分は魔術が身近にあったわけではないから興味深い、と感心したように続ける。アリエスはその反応に驚いたし、正直に言うと戸惑った。初めて人前で魔術を使った夜も、そして今も、リゲルはアリエスたち魔術師のことを、あの村の娘たちのように遠巻きに警戒するような目で見てくることは一度もなかった。

「どうして……」

 思わず呟く。気味が悪いと思わないの、と続ける前に、「ん?」とリゲルに訊き返され、アリエスは何でもない、と慌てて口を噤んだ。


 軽食を片付けてまた歩き始めた後は、ほどなくして人の手で整えられた砂利道に出て、やっと横並びで会話をする余裕も生まれた。

「そういえば、何年かルーデスと暮らしてたって言ってたな」

 アリエスは森の中をのんびりと飛んでいる青い蜻蛉を軽く避けながら、うん、と頷く。

「最初のほうは覚えていないんだけれど、私は当時五歳くらいだったって周りの大人たちから聞いたわ。彼に引き取られて、約五年間一緒に暮らして……それから王宮から彼にお呼びがかかったとかで、私はフォーマルハウト村の老夫婦に預けられることになったの。それ以来、噂でさえ名前を聞かないまま六年も経っていたから、本当に驚いた」

「六年前か。古参の兵士仲間が言ってたな。当時は、すごい魔術師が王宮に戻ってくるらしいと騒がれてたって」

 アリエスは正直、師匠であるルーデスがどのくらいの魔力を持っている人物なのかを知らずに接していたので、客観的な評価を第三者から聞くのは、面映ゆいような、何だか落ち着かないような、不思議な気持ちだった。そんなアリエスの内心を余所に、リゲルは話を続ける。

「おれはルーデスを呼び戻したのが誰かを知り得る位置にはいないんだが、王宮内の噂では、ディオクレイス様が呼び戻したんだって言われてる」

「王様が?」

「あの二人は、前王のケイロス様の代から、つまり幼少期からの付き合いで、だいぶ深い信頼関係を築いていたみたいだからな。だからこそ、おれもすぐには信じられなかった。あの夜、ルーデスと対峙したディオクレイス様もきっと同じ気持ちだったろう」

 今から十三年前、“時空のうろ”に起因する大きな災害があって、その動乱のなかで前王ケイロスは東の国ラダニエの王に処刑された。その後、時空のうろの修復のために王宮に集められていた魔術師らは、役割を終えて思い思いの場所へと散っていった。田舎娘のアリエスでも、このヘラス国に生きていればこのくらいのことは人伝で聞いて知っている。

「ルーデスは先王の御代、王宮魔術師の一人として時空のうろの問題の解決に貢献したって聞いてる。まだ相当若かったのに、大人の魔術師に交じって最前線で活躍していたどころか、うろの修復方法を最初に見つけ出したのもルーデスで、先王もその功績を評価して厚く遇していたそうだ。その話だけ聞くと、王家に反旗を翻す動機は特に無いように思えるんだけどな」

 リゲルは訝しむように首を傾げる。アリエスも俯いて「うん……」と歯切れ悪く頷いた。そもそも、そんな華々しい経歴の人間がわざわざ王宮勤めを辞めてまでアリエスを引き取り、人目につかない田舎町で育てる気になったのはどうしてだろう。詳しい話を聞けば聞くほど、アリエスの中で彼に訊きたいことが雪のように募っていった。


 二人は日が沈んでしまう前に小さな宿場町に辿り着き、今夜はここで宿をとることにした。宿の部屋に入るなり、リゲルは「ちょっとそこに座って待ってな」とアリエスを寝台に腰掛けさせる。何だろうとアリエスが彼を見上げていると、リゲルは荷物の中から何種類かの粉末を取り出して手早く水で練り、器に入れて寝台の脇に置いた。

「軟膏だ。擦り込むと切り傷に効く」

 そう言って履き物サンダルを脱ぎ、自分も寝台に腰掛けて薬を塗り始めた。アリエスも見様見真似で同じようにしてみた。軟膏は草を燃やしたような独特のにおいがして、傷口に塗ると少ししみた。

「あなた、薬師なの?」

 そう尋ねると、リゲルは首を振った。

「いや、本業ではない。育ての親が薬師で、手伝ってるうちに色々覚えたってだけのことだ」

 へえ……と今度はアリエスが感心して相槌を打つ。

「孤児だったんだ。巨大な“時空のうろ”のせいで起こった大風で、親と住処を失った。あんたも、事情は違えどそうだったんだろ。お互い、今までよく生きてきたよな」

 リゲルは世間話をするような調子でそう話した。アリエスはどんな表情をしていいか分からず、うん、とだけ答えて、リゲルから手渡された携帯食の干し無花果を齧った。


 せっかくこの辺りでは比較的栄えている町に出たので、翌日は町中を巡回する兵士に正体を悟られぬよう注意しながら、王女の目撃情報を聞き込むことにした。聞き込みの途中、不意に辺り一帯が薄暗くなる。今日は晴れていたはずなのに、急に雲が出てきて太陽を隠したのかしらと思って見上げてみると、太陽の光を遮っていたのは雲ではなく、空を旋回する巨大な濃灰色の鳥だった。町行く人はみな一様に立ち止まってそれを見上げている。小声で話し合っている者もいた。

「あの鳥、最近現れるようになったわね。何だか監視されているみたいで怖いわ」

「餌を探しているのかしら」

「この辺りにはまだ下りてきたことはないみたいだけど、隣町では何人か攫われたそうよ。しかも、何故か裕福なご婦人ばかりが狙われているんですって!」

 確かに、地上から見上げてもあの大きさということは、人を襲う力は十分にありそうだ。アリエスとリゲルは空を見上げるのをやめ、思わず顔を見合わせる。得体の知れないその巨鳥を恐れてか、道の脇の家々はどこも固く門扉を閉ざしているようだった。そのせいもあって、二人の本来の目的である王女捜しの聞き込みの成果も芳しくない。

「……やっぱり、簡単には見つからないよな。彼女の居場所に繋がりそうな情報すら無い」

「この辺りには立ち寄らなかったのかも……」

 市場に買い出しに来た地元民を装いつつ、二人は小声で相談し合った。市場の南の端の店に手頃な値段の果物が出ていたので、干して携帯食に出来そうなものをいくつか見繕う。店の端に置かれていた果実をもっとよく見ようとアリエスがしゃがみ込んでいたとき、不意に外套の裾が引かれたのを感じた。次いで、まだ舌っ足らずな「わっ」という短い叫び声と軽い衝撃、布が破れる音。

「坊主、大丈夫か?」

 横で見ていたらしいリゲルの声が降ってくる。アリエスも状況を確認してみると、五つか六つくらいの歳の頃に見える少年がアリエスの外套の上に膝をついていて、リゲルの助けで起き上がろうとしているところだった。推測するに、偶然背後を通ろうとした少年が、しゃがんでいたアリエスの外套の裾に引っかかって転んでしまったのだろう。

「ああ、ごめんね。怪我は……」

 アリエスがそう言いかけると、少年は彼女と目が合うなり、みるみる泣きそうな顔になった。

「母ちゃん……?」

「……えっ?」

 思ってもみなかった一言に、アリエスはそのまま言葉を失くして固まってしまった。



 アリエスとリゲルは、玄関から居間、暖炉まで清潔に整えられているこじんまりとした家の中を遠慮がちに見回した。

「ごめんなさいね、うちの子が……」

 緩く巻いた髪を後ろ頭にまとめ、大きなお腹を抱えた婦人が、もう一度申し訳なさそうに眉を下げた。アリエスは首を横に振り、いいえ、こちらこそ、と恐縮して答える。

 さいわい、少年に大きな怪我は無く、しばらくの後に本当のお母さんが少年を探しに来てくれたので、それで迷子事件は無事に終息となった。しかし、落ち着いてから確認してみたところ、少年が転んだ拍子に外套の裾が大きく破れてしまっていたので――アリエスは自分で縫い直せば良いから構わないと言って辞退したものの――婦人のどうしても繕わせてほしいという強い要望もあって、彼女の家で外套の補修をしてもらうことになったのだった。

 繕いものが終わるまでにはまだ少し時間がある。アリエスは家の中を見てきても構わないという婦人の勧めに従って居間を通り抜け、立派な樹が植えられている中庭のほうに出てみた。すると、リゲルが先に中庭に来ていたようで、あの少年と話しているらしき声が聞こえた。

「坊主、何してるんだ?」

「あの木に生ってる果物、母ちゃんに食べさせたいんだ。滋養があると思って」

 少年の視線を追ってみると、なるほど、樹の頂上付近にひとつだけ、よく熟れた赤い果実がかすかな風に揺れている。リゲルも手で庇を作ってその果実を見上げた。

「そうか。うーん……あの高さだと、おれが坊主を肩車してもちょっと足りないな。それじゃあ……」

 アリエスが魔術で強めの風を起こして果実を落としてみようかと言い出す前に、リゲルは手際良く矢を用意して弓につがえ、片目を眇めて冷静に狙いをつけると、満を持して矢を放った。矢はどういうわけか、折り重なった緑の葉の間を見事にすり抜けて、果実の茎だけを正確に打ち抜いた。重力に従って落ちてきた果実は、両手を伸ばしていた少年がうまく掌の中に収めたようだ。

 よかったな、と少年の頭を撫でてやっているリゲルの様子を、アリエスは何度も目を瞬きながら見つめる。そうしているときにちょうど、婦人が「お茶でもどうかしら」とアリエスたちを呼びに来てくれた。

 アリエスたちが囲んだ食卓は、四人分の飲み物の器と果物の皿を並べるとそれだけでもういっぱいになった。少年とリゲルが収穫してきた果実は、期待どおりに甘みが強かった。

「ねえ、“イオニス”もおいしいって言ってるかな?」

 少年が隣に座っている母親のお腹を撫でながらそう尋ねると、婦人も「そうね」と微笑んだ。

「イオニスって、赤ちゃんの名前?」

「そうなんです。夫がこの地方の兵士だったんですけど、半年前に北東方面の内紛に駆り出されて……結局そのまま帰ってこられなくて。だから、生まれてくるこの子には、夫の名前をつけようって決めているの」

 ちなみに、この子――ニコスはお祖父ちゃんの名前を貰ったのよ。そう続けて、婦人は少年の頭を優しく自分のほうに引き寄せた。この地方では特に、尊敬や愛情を示すために、子どもに両親または祖父母と同じ名前を与える慣習が残っているそうだ。何とも誇らしそうな顔のニコス少年に、アリエスも目を細めて微笑み返した。


 夕暮れが近付く頃、二人は婦人と少年の家を出て、町外れの安宿に向かうことにした。アリエスは繕われた外套を羽織りなおし、改めて世話になった婦人に頭を下げる。玄関へ向かう際の世間話からの流れで、自分たちが王宮に向かっていることと、人探しをしていることをそれとなく尋ねてみたが、残念ながら婦人には特に心当たりは無いとの返事だった。

 玄関から外に出るとき、気付いたことがあった。田舎の家でよく防犯のために玄関先に掲げられる常夜灯が切れている。それについてアリエスが言及する前に、婦人が少し寂しそうに苦笑しながら口を開いた。

「これね。主人が帰ってこられないって分かってからかしら。お恥ずかしいけど、もう何か月もこのままなのよ」

 アリエスは婦人の話を聞いて、火の絶えた松明に視線を落とす。

「…………」

 躊躇いは一瞬だった。不安を吹き飛ばすように、ニコスに向かって「見てて」と微笑む。それからゆっくり目を閉じて、炎の精霊に心の中で呼びかけた。首飾りに付いた深い緑色の貴石ほうせきが胸元で光り出す。その光にニコスが小さく声を上げているうちに、アリエスは指先を松明の先に近付け、ごく小さな円を描いた。次の瞬間、松明の先に小さい灯火が点っていた。

「魔力を込めましたから、普通の炎よりは長持ちするはずです。もし良ければ、竈の種火にも使ってください」

 アリエスがそう言うと、婦人はニコス少年と顔を見合わせ、それから嬉しそうに「ありがとう。優しい魔術師さん」と笑みを深めた。

「おねえちゃん、すげー。そんなことできるの。ちっちゃい頃に読んでもらったおとぎばなしの、竈の女神様みたいだった。あのね、絵本の中にね、火を操ってる挿絵があったんだよ」

 そうだったんだ、と答えながら、アリエスは小さい子どもが「ちっちゃい頃」と自身の過去を振り返っているのが愛おしくてたまらず、少し笑ってしまった。それを見ていた婦人が、「ああ」と思い出したように声を上げる。

「魔術師といえば……あなたたち、魔術師を探しているって言っていたわね」

 ええ、とリゲルが首肯すると、婦人は考え込むように掌を頬に当てて話を続けた。

「最近ね、遠くの山のほうまで出稼ぎに行っていたっていうお隣さんが帰ってきたのよ。その人が言うには、旅の道中でこんな噂を聞いたらしいの。“最果ての村”と呼ばれている西の端の村の外れに、強大な力を持った魔術師が人目を避けるように一人で暮らしているらしい、って」

「“最果ての村”……」

 アリエスとリゲルの呟きが重なった。

「あくまで噂だし、信頼性が高い話かどうかは私も分からないんだけれど、闇雲に国じゅうを探し回るよりは、まずそこに行ってみるのも良いかもしれないわね」

 強大な力を持った魔術師――。アリエスは皮袋かばんの持ち手の紐を握り直し、リゲルと互いに顔を見合わせて頷き合った。



「いい人たちだったな」

 親子と別れたあと、親子の家のほうを振り返ってそう言うリゲルに、アリエスも「うん」と同意した。リゲルは進行方向に踵を返し、そのまま歩き始めるかと思いきや、数歩進んだところで突然立ち止まった。何事かとアリエスもリゲルの陰から顔を出して道の先を確認してみると、十分に舗装されていないのか、それとも工事の途中なのか、道を斜めに横切るように罅割れが出来ていた。

「ちょっと大きいな。アリエス、ほら」

 割れた道路を先に越えたリゲルが、振り向いてアリエスに手を伸ばす。けれど、考え事をしていたアリエスは、その手をすぐに取ることができなかった。一旦動きを止めて、リゲルの掌をじっと見つめる。

「……アリエス? どうした」

 問いかけられて、二呼吸ぶん逡巡する。結局アリエスは、目を伏せたままぽつぽつと話し始めた。

「私ね、父と母が付けてくれた本当の名前を知らないの。周りの大人は、私が両親をなくしたショックでそれ以前の記憶を名前ごと忘れてしまったんだろうって、そう言ってた。アリエスっていうのは、あの人が――師匠せんせいが付けてくれた名前よ。『名前が無いと、呼ぶときに不便だから』って」

 誰かにこのことを話すのは初めてだ。少し語尾が震えた。アリエスはその震えを誤魔化すために、黙って話を聞いているリゲルの反応を窺おうともしないで、一方的に話し続けた。

「あの人は、私が魔術の制御に何度失敗しても、叱りつけたりしないで根気強く教えてくれた。まだ幼かった私が危ないことをしようとしたら、危険を遠ざけて守ってくれた。……優しい人よ。少なくとも私は、それを知ってる」

 ようやく顔を上げる。リゲルの深い茶色の目がアリエスを見つめていた。いま、二人の間には罅割れという名の線が引かれている。その一歩分の隔たりを意識しながら、アリエスは話し続ける。

「……でも、今こうして親切に私に手を差し出してくれているあなたのことも、私は悪い人だとは思わない。だから、少し悲しいと感じてしまったの。あの人とあなたを同時に信じることができないことが」

 師匠であるルーデスの無実を信じるなら、目の前のリゲルは嘘をついていることになる。それは逆も然りだ。

 ひととき、沈黙が下りた。アリエスはリゲルの瞳を見つめる。その奥にある何かを読み取ろうとしてみる。けれど、沈黙は長くは続かず、リゲルのさっぱりとした声に軽々と吹き飛ばされてしまった。

「それでいいよ。少なくとも今は。今すぐ白か黒かの結論を出す必要も無いだろ。あんたは今、こうしておれの旅に付き合って力を貸してくれてる。それは事実だ」

 アリエスはその場で何度か瞬きをしてから目蓋を閉じた。リゲルの言葉が時間をかけて心に染み込んでいくのを感じた。再び目を開けたとき、リゲルの大きな手は変わらずそこにあった。

 確かめるように、自分の胸元に手を当ててみる。首飾りについているオリーブの葉の色の石の感触が衣越しに伝わってきた。

 ――うん。私は、師匠せんせいのことを信じてる。そのうえで、私がいま自分の目で見ているものや体験していることも、同じように信じたい。今は、それでいい。

 ひとつ深呼吸をして、アリエスは初めて自分の意思でリゲルの手を握った。



 月の光は万物に対して平等に降り注ぐ。王宮の柱廊にも、夜の森の月桂樹の葉脈の上にも、眠りにつく民家の煉瓦屋根にも、そして――こんな埃に塗れた路地裏にも。

 彼女は追手の矢を避け、張り巡らされる包囲網をすり抜けて何とかこの路地裏まで辿り着き、片方の掌を汚れた塀に沿わせながら力無く歩を進めていた。もう真っ直ぐ歩く力は残されていなかった。やがてその歩みも止まり、彼女はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。かろうじて残っている判断力を振り絞り、出来るだけ死角になりそうな古い木箱の隣を選んだ。腰を下ろした拍子に、護身守代わりに身に着けている小さな麻袋が汚れきった衣と擦れ合う音がした。

 まだ弾んでいる呼吸が落ち着くのを待つあいだに、木箱に背を凭せ掛けてぼんやりと月を見上げる。滋養不足のために目が霞み、月の輪郭は判然としない。それでも、記憶が確かであれば、今日は満月のはずだった。あの日と同じ、美しい真円の月の夜だ。

 震える手で懐を探り、錆びついた小刀を取り出す。彼女はひととき躊躇っていたが、ついに決心し、その刃の切っ先が自らの喉元近くに向かうように、小刀を両手で空中に振り上げた。刃が月光に照らされて鈍い輝きを放ち、彼女の緩く巻いた紅鳶色の髪の縁に反射していた。

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