第2章「異国の王子と王女」①
国一番の港から首都へと続く山道を、豪奢に飾り立てた馬車が五台連なって進んでいる。真ん中の馬車に乗り込んでいるのは異国の王子だ。ヘラスで“水の国”と呼ばれている南の島国の王子は、物珍しそうに幌を上げて外の景色を眺めていた。故国は一昔前は水の国と通称で呼ばれることが多かったが、近年はシャウラという国名で呼ばれることが多い。シャウラおよびヘラスと国交のある焔の国ラダニエも同様だ。
「メイヴィス様、危のうございますよ」
従者の諫言にも「うん」と生返事を返し、遠くに連なる白い山々を見遣る。この風景は母国ではなかなか見られないものだ。今回は王の婚礼の儀に出席するための訪問だが、こんな名目でもないとメイヴィス王子がこうして単独でのんびりとヘラスを訪れる機会は少ないので、出来る限り目に焼き付けておきたかった。
やがて山の出口の関所に差し掛かり、身分証を検めるため、五台立ての馬車は大通りの脇の林の中に停められた。手続きを待つあいだ、メイヴィスは休憩と視察を兼ねて宿場町の様子を見てくることにした。冬が近づいている合図なのか、メイヴィスの一行が無事にヘラスの港に到着してから昨日に至るまでの数日間は雨が降り続いており、その影響で石灰質の地面は多少
メイヴィスは母のカペラ女王に連れられて何度かこの国を訪れているが、最後に訪問したのは四年前、前王妃イスダルの葬礼の折だった。
「メイヴィス様、いかがですか。久々のヘラスは」
「変わりなくて何よりだ……と言いたいところだけど、少し妙な感じだ。みな、やけに浮足立っているね。前回、同じ季節に訪れたときは、もっと活気があったと記憶しているのだけど」
「はあ……。わたくしは前回の訪問の際もご一緒しておりますが、そうでしたでしょうか」
従者のフェクダはいまいち腑に落ちぬといった様子だったが、メイヴィスはこの違和感に確信があった。人々はみな陰で何事かを話し合っていて、道行く人と挨拶をするどころか目を合わせる者すら少なく、じきに日が暮れるというのに常夜灯が点される様子もない。――この町の人々は何かを恐れている? だとすれば、何を? 弔事にあたる前回の訪問時であればいざ知らず、況してや今回は国王の婚礼という稀に見る慶事の時節であるはずなのに。それを含めて考えると、やはりこの町の様子は異常と言うほか無かった。
結局メイヴィスは予定より早く視察を終えることにして、馬車が停めてある広場に向かった。やはり山の際にあたるこの道が特に
「フェクダ。崩れるかもしれない。早めに出発を――」
従者を振り返ってそう言いかけたところで、片足の重力を失って身体が傾いだ。メイヴィスが踏み抜いた地面が突如崩れ始めたのだった。彼は従者が慌てて何事かをメイヴィスに向かって叫ぶのを聞きながら、声を上げる間もなく崩落に巻き込まれていった。
意識が戻ったときには、既に陽が傾きかけていた。メイヴィスは思考の靄を振り払うように頭を振り、慎重に身体を起こす。腕や足を点検してみたが、泥汚れの他にはたいした怪我も無さそうなことは幸運だった。
しかし、元いた地点からするとだいぶ下のほうまで滑り落ちてきてしまったらしい。メイヴィスは自分の身の丈の三倍でも足りないほどの崖の上を見上げた。よしんばここを登れるとしても、また土砂崩れが起こる可能性を考えると、賢い選択肢ではないだろう。メイヴィスは顔や身体の泥汚れを出来る限り払ってから、周囲を探索することにした。少し歩けば人がいるかもしれないし、どこかに遠回りでも崖の上に合流できる道があるかもしれない。
崖沿いに歩いてみても迂回路らしきものはなかなか見つけられなかったが、その代わり人の話し声が聞こえた。少し離れたところに見える洞穴のような場所からだ。メイヴィスは一瞬安心したが、次の瞬間眉根を顰めた。聞こえてくるその声が下卑た笑い混じりの声で、更に、そのなかに時折女性の悲鳴のようなものが混ざっていることに気付いたからだ。
「…………」
懐に忍ばせている飾り付きの短剣を握り直す。音を立てぬよう洞穴に近付いていくと、こちらに背を向けた五・六人の男が洞穴の中にいることが確認できた。まずはこの人目に付きづらい場所で何が行われているかを特定せねばならない。メイヴィスは息を殺して、洞穴の中からは死角になるように、壁に背中をぴったりと付けた。
「……ほら、こっちにも渡せよ。なかなかの上玉じゃねえか」
「あんな裏路地を女一人で歩いてたら、どうなるか知らなかったなんてまさか言わねぇよなぁ?」
「嫌――やめて。離しなさい」
――え?
その女性の声を聞いた瞬間、メイヴィスは身を隠すために音を立ててはいけないということも忘れて、思わずそこから一歩踏み出した。細かい砂利を踏む音と衣擦れの音が洞穴の中に響き、男たちが弾かれたようにこちらを振り向く。
「誰だ。誰かいるのか!」
メイヴィスは己の初歩的すぎる失態に、片手で目を覆って頭を垂れた。次の瞬間、否、と思い直して首を振る。自分の嫌な予感が的中しているのであれば、それこそ一刻も早く確かめねばならない。ひとつ息をつき、覚悟を決めて洞穴の中を覗き込んだ。
予想通り、吐き気がしそうなほど醜悪な相貌の男たちの九つの眼がメイヴィスを睨みつけていた。うち一人は隻眼だった。
そして、そのなかで強張った表情を浮かべ、目を見開いてこちらを見つめる女性と目が合った。彼女が必死で掻き抱いている薄汚れた上衣の下に、襤褸布のような衣が垣間見える。それは非対称な形に引き裂かれていて、彼女の細い肩から今にもずり落ちそうだった。これまでの男たちの罵声と彼女の様子を考え合わせれば、これから何が行われようとしているかは明白だった。それを悟ったとき、普段温厚な
「兄ちゃん、見たところ随分と羽振りが良いようだが、何か金目の物や武器になる物は持ってるか。全部ここに捨てて行きな。命が惜しくなかったらな」
破落戸は信じられないほど黒く汚れた手で、メイヴィスの足元の地面を指差す。メイヴィスは一層険しさを増した瞳で、自分よりも背の高い男を見上げた。十を数えるほどの睨み合いの末、メイヴィスはふと男から視線を外し、懐から豪奢な装飾が施された短剣を取り出して、躊躇いもせず足元に放り投げた。この短剣は宝石がいくつもついている金製で、売り捌けば金貨百枚は下らないはずの品だ。
一瞬、男がその短剣に気を取られる。その隙を突いて、メイヴィスは男の鳩尾に打ち身を入れ、男が動けずにいるうちにすかさず体勢を低くして短剣を回収する。その流れで男の脇をすり抜け、肩を震わせて座り込んでいる女性のもとへ向かった。粗暴な手や足が行く手を阻もうとしてきたが、ひとつは短剣の柄で叩き落とし、ひとつは避け、もうひとつは腕の軌道を少し変えてやって仲間を攻撃するように仕向けることで対処した。息つく間もなくしゃがみ込み、女性の手を取って、立ち上がる時の反動で強く引く。
「――行こう。走って」
「――――」
彼女が声を上げる前に、メイヴィスは走り出していた。彼女もそれにつられる形で走り出した。何かを考えている暇など無く、無我夢中で走って、気付いたときには薄暗い洞穴を抜け出していた。二人は男たちの怒号が聞こえなくなるくらいまで、夕焼けのなかを息つく間もなく駆けた。
「ここまで来れば……流石に」
メイヴィスは徐々に走る速度を緩め、洞穴があった方角を見遣って、肩で息をしながら立ち止まった。方向も分からず走るうちに、洞穴があった方角とは反対の岩場のような場所に出ていた。メイヴィスは女性の手を握ったままだったことを今更思い出して、掌に込める力を徐々に緩めた。女性の琥珀色の瞳とまともに見つめ合う。彼女の瞳を、メイヴィスはよく知っていた。
「どうして……」
罅割れた唇から最初の一言を絞り出したのは女性のほうだった。その声はひどく震えていた。メイヴィスは緩く頭を振って、信じられない思いで女性と視線の高さを合わせた。嫌な予感が当たってしまった。すぐに自分の外套を脱いで、肌寒そうな彼女の肩に着せかけてやりながら問いかける。
「……それは私の台詞だ。何があったのか、教えてくれるかい。ディオクレイス王の許嫁であるはずのあなたが、どうしてこんな姿でこんなところに?――東の国の、ハルス王女」
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