第1章「フォーマルハウトの村娘」②

 自分はずっと魔術師を探していた。そう言ったきり、青年は流石に精神力の限界を迎えたらしく、その場に倒れ込んで眠るように意識を失ってしまった。彼にちゃんと息があることをアリエスが慌てて確認しているうちに、水の粒が葉を叩く細かい無数の音が聞こえ始める。村の大人たちが言っていたとおり、雨が降り出したのだ。アリエスは仕方ないので、互いの体温が下がらないように青年の隣に身を寄せて、大樹の根元付近で雨を凌ぐことにした。弱々しい呼吸だけを繰り返していた青年は、幸い、ほどなくして口を利ける程度に回復した。彼は雨が地に染み込む音のようにぽつぽつと話し始めた。

「……もう、ひと月以上前のことだ。この国ヘラスの王――ディオクレイスとその婚約者である異国の王女が、夜更けに揃って姿を消した。二人は今も見つかっていない」

 その話なら、ついさっき村で聞いてきたばかりだ。アリエスは得心して頷いた。

「村の女の子たちは、駆け落ちしたんじゃないかって言ってたわ」

「ああ。王家の窮屈なしきたりに飽いた王女がその手練手管で王を唆し、自由を求めて王宮の外へと連れ出した――。だが、それは国軍の兵士が流させた噂話に過ぎない。実際に起こったことは違う。ディオクレイス王は、今も王宮のどこかに捕えられている。身柄がまだ移動されていなければ、おそらく、北端の物見塔の中に。そしてハルス王女は、おれと同じく、まだこの国のどこかに逃げ隠れている可能性が高い」

 青年があまりに真っ直ぐな目をして真剣に話すので、アリエスはその雰囲気に気圧されて、いつの間にか彼の話を本当のことかもしれないと思い始めていた。

「それは……確かなの? それなら、あなたが王女様ではなく魔術師を探していたというのはどうして?」

 そう問いかけると、青年は俯いて左手を胸の辺りまで掲げ、その中に何かを握り込むように拳をつくった。

「……力が必要だ。王女を探し出して、あの魔術師に刃を突きつけるための力が」

「あの魔術師……?」

「王を捕え、この反乱計画を主導したと思われる、王宮付きの魔術師だ。おれたちはその魔術師と対峙せねばならない。この村にも、名前くらいは届いてないか? 当代随一の魔力を持つと言われる、ルーデス・エヴィアっていう……」

「……えっ?」

 その名を聞いた途端、アリエスの表情が固まった。いっそ、聞き違いであればいいと思った。たっぷり二呼吸ぶんの沈黙の後、「そんな……」と口の中だけで声を震わせてやっと呟く。だって、ルーデス・エヴィアは――。

「そんなはずないわ。人違いか、何かの間違いよ。それが本当に私が知っている彼の話なら、彼がそんなことをするわけない。だって、彼は――私の魔術の師匠なんだから」


 雨が強まってきた。辺りはとうに暗くなっており、もはや今日のうちに村へ戻るのは諦めねばならなかった。育ての親である老夫婦は、帰ってこない娘のことを今頃心配しているだろうか。

「……私、ここから遠いところにある小さな村で生まれたの。その頃の記憶はないから、そう聞いてるっていうだけだけど」

 アリエスは目を伏せて、地面を雨がしきりに叩くのを眺めながら話し始めた。

「故郷の村が焼き討ちに遭って孤児みなしごになった私を弟子として引き取ったのが彼だった。その頃、私は魔力の制御方法がよくわからなくて、しょっちゅう魔力を暴走させていたらしいの。それで師匠せんせいは、私に魔術制御の方法を教えてくれた」

 逆に言えば、実践的な魔術のたぐいはほとんど習っていない。けれど、ルーデスと離れてからずっとこの辺境の農村で”他の皆と同じ、普通の村娘”として暮らしてきたアリエスにとっては、高度な魔術などよりも、魔力をうまく制御する方法のほうがよほど重要事だった。

「一緒に暮らしていた五年の間、師匠せんせいは私によくしてくれたし、確かに口数の少ない人ではあったけれど、魔術をそうやって悪い事に使うような人には見えなかった」

 アリエスはそう言って首を振った。青年はアリエスの話を聞いて、「そうか……」とだけ呟いた。

「それじゃあ、余計に信じられないのも当然だと思う。でも、今の話が、おれがこの目で見てきた全てなんだ」

 青年はわずかに戸惑って言葉を選ぶような様子を見せつつも、乾いた血で汚れた衣の上に投げ出した手の指を拳の形に握りしめ、焦りの滲む声音で続ける。

「このままじゃ、ディオクレイス王も不名誉な噂を流された上にずっと幽閉されたままで、ハルス王女もきっと助からない。そんな最悪の事態になる前に、おれは王女を捜し出して王宮へ戻る。誰にも反論できない真実を突き付けて、ルーデスの計画を止めなきゃならない。……だから、魔術師であるあんたに、協力してほし……」

 彼の声は徐々に苦しそうに掠れて、遂には途切れてしまった。顔色は蒼白、眉間には深く皺が刻まれ、額にも脂汗が浮かんでいるところを見ると、血を失いすぎたことによる貧血か、傷の痛みに耐えきれなくなってしまったのだろう。

 ――この人が嘘をついているとしたら、人はこんなになってまで、王宮から遠く離れたこんな辺境へ命懸けで逃げて来られるものだろうか。その考えがアリエスを迷わせ始めていた。複雑な思いを抱えながらも、ひとまず今は目の前の怪我人の苦痛が和らぐようにと、彼の広い背をさする。

 夜半を過ぎても、雨が止む気配は無い。アリエスは目を覚まさない青年と肩を寄せ合い、彼の外套を半分ずつ二人の肩にかけて一夜を過ごした。雨が青葉をたたく音を聴いているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。


 夢を見た。夢の中のアリエスはまだ五つか六つで、魔力の暴走で鍋を焦がしてしまったか何かでひどく塞ぎ込んでいた。顔を上げられないでいるアリエスの肩に、体温の低い大きな掌が置かれる。

「アリエス、気にすることはない。魔力を制御する方法を教えるから、怖がらずにもう一度やってみなさい」

 アリエスは師匠の顔を見上げたが、ひどく靄がかかって、彼の顔がよく思い出せなかった。

師匠せんせい。王様のことを裏切って幽閉したって、本当ですか? 本当だとしたら、なぜそんなことを?」

 そう尋ねたかったが、声が出なかった。アリエスが焦って口を開け閉めし、喉に手を遣っているうちに、いつの間にか彼は後ろを向いてアリエスの元を去ろうとしていた。その後ろ姿は、アリエスが実際に六年前に見た姿でもあった。アリエスをこの辺境の村に預けて王宮へと去りゆく彼の姿だ。

 待って、と言いかけたときに目が覚めた。辺りで人の動く気配と草を踏む音がする。どうやら青年のほうが先に目を覚まして、出発の準備を進めていたらしい。ふと自分の胸の辺りを見下ろしたアリエスは、彼の外套がアリエスの身体を包むように掛け直されていることに気付いた。

 青年の顔色は昨夜に比べると随分良くなっており、普通に歩けるまでに回復しているようだった。そのことに安心しつつも、アリエスは何となく無言の気まずさに耐えかね、青年の意思確認のためと、昨夜の非日常的な出来事が幻ではなかったということを確かめるために、彼に話しかけてみた。

「……ねえ。昨日も言ったとおり、私、師匠せんせいのように魔力の強い魔術師じゃないわ。高度な魔術なんて習っていないし、これまで魔術師であることを隠して、普通の村娘として生きてきたの。そんな私が、魔術の技量で師匠せんせいに敵うわけがない」

 そう改めて言葉にしてみると、自分の無力さが浮き彫りになった気がして、アリエスは思わず肩を落として俯いた。しかし、青年はそれを聞くなり、「そういうことじゃない」と即座に否定する。

「おれから見ると、魔術師ってことだけじゃなくて、あんたがルーデスの知り合いであることにも意味があるんだ。敵の過去の情報が手に入るかもしれないからな。具体的な戦術は、情報を集めながら、旅をしながら考えればいい」

「…………」

 アリエスはそれ以上話を進展させることを避け、森を抜けて村に帰る準備を淡々と進めた。青年と一緒に村まで戻れば、また昨日の兵士たちと道中で遭遇してしまう可能性も十分あったが、それでも彼は流石に一人では危ないだろうと言って、フォーマルハウト村に到着するまで同行してくれた。

 幸運なことに、村に戻った二人を最初に発見したのは、アリエスを育てた老夫婦だった。心配して森の入口のほうまで様子を見に来ようとしてくれていたらしい。村じゅうを巻き込んでの騒ぎにならずに済んだことに胸を撫で下ろしたのも束の間、老夫婦はアリエスが道に迷ったのを青年が助けてくれたものと勘違いして、「あなた、香草茶でも飲んで行きなさい」と、あっという間に彼を家に上げることを決めてしまった。


 年季の入った質素な卓を、四人の人間と四つの茶器が囲む。青年は老夫婦まで巻き込むことを避けるためか、自分の職や身分をうまく伏せて、今のところは当たり障りの無い会話に終始していた。青年側の事情は全て森の中で話し尽くしたということで、あとはアリエス自身の決断を待っているのだろう。

 森の中で、ひと晩雨音を聞きながらずっと考えていた。どちらにしても大きな決断であることは承知の上だ。――けれど、自分の心に従うなら、答えは既に出ている。では、目下の問題は、その答えとどう向き合い、どう伝えるべきかだ。

 アリエスは香りの良い香草茶を一口飲んで唇を潤すと、茶器をそっと卓に置いてから、対面の老夫婦に向かって話し始めた。

「おじいさん、おばあさん。私ね――」



「――よかったのか。村の仲間に知らせてから出発しなくて」

 旅の準備に丸一日を費やした翌日の朝、二人はそれなりに重い皮袋かばんを背負って、山の入口に続く坂道の上からフォーマルハウト村の長閑な景色を一度振り返った。

「うん。だって、旅に出る理由を聞かれたら答えられないもの……」

 正確には、答える勇気が無いと言うほうが正しい。旅に出る理由を説明することは、自分が魔術師であることを告白することだからだ。森の中で青年を助けるためにやむを得ず魔術を使ったことはあるけれども、村の娘たちの前でその告白ができるかどうかは、アリエスにとってはまた別の話だった。

 ――私は、人から聞いた話だけを鵜呑みにするんじゃなくて、どうしてもこの目で直接確かめたい。本当にあの人がこの事態を引き起こしたのか、そうだとしたら、それはどうしてなのか。それに、この機会を逃したら、あの人にはもう二度と会えない気がするの――。アリエスは、青年と共に旅に出ることを決めた理由を育ての親にそう説明した。実際に口に出したら、自分でも不思議なほど、あらためて心が決まった気がした。私は、ほんとうのことが知りたいのだ。たとえ、その真実を知ることで自分が傷つく結果になるとしても、知らないままでいるよりはずっと良いと思えた。

 アリエスの決意が固いことを知って、育ての両親は「あんたは、子どもができなかった私たちの前に突然現れた神の使いみたいなもんだったからね。時を経て、また私らのもとを去ってしまう日が来たってことなのかもしれないね」と、心配と諦めが半々の顔でアリエスを旅に送り出してくれた。アリエスは村の様子が見えなくなってしまう前に、もう一度後ろを振り返り、村の風景を目に焼き付けようとした。それから青年のほうに向き直って、わざと一歩分の距離を取る。

「……魔術師としてついていくことを承諾したからって、あなたのことを完全に信用すると決めたわけじゃないわ。あなたは魔術師である私を利用する。私は、真実を知るという目的を果たすためにあなたを利用する。それだけのことよ」

 アリエスが改めてそう宣言すると、煉瓦色の髪の青年は気を悪くしたふうも無く、からりと笑った。

「分かってる。だけど、他に仲間が見つかるまでは折角二人の道行きだ。仲良くしよう」

 目の前に差し出された手を取るか否か一瞬躊躇う。結局、彼の人好きのする雰囲気と真摯な瞳に根負けして、アリエスは一回り大きな手をおずおずと握った。青年は明らかにほっとしたように表情を緩める。

「よろしく。おれはリゲル・デルフィス。今はお尋ね者だが、元の肩書きは王宮の衛士だ」

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