第1章「フォーマルハウトの村娘」①

 “決して人前で魔術を使ってはいけない”――それが、魔術の師匠がアリエスに教えた最初のことだった。

『いいか、アリエス。約束してくれ。お前が持っている魔力は人前では隠すべきだ。それが結果としてお前自身の身を守ることに繋がる。さあ、私が魔力をうまく制御する方法を教えてあげよう――』

 師匠の深い声が頭の中に木霊する。彼と別れてこの辺境の村で暮らすようになってからも、アリエスは師匠から魔術を教わった幼い頃の日々のことを繰り返し夢に見た。昨夜もそうだった。アリエスは目を擦って夢の内容を反芻し、胸のあたたかさを覚えながら寝床を出た。

 ヘラス国の北西の国境付近に位置するフォーマルハウト村は今日も平和そのものだった。アリエスはいつものように近所の娘らとともに洗濯をして敷布を軒先に干し、昼間は葡萄を収穫して葡萄酒を作る準備を進めた。それが終わると清水で足を綺麗に洗って、夕暮れ前に洗濯物を取り込む。今日は珍しく昼過ぎから陽が翳っていて、夕方から夜にかけては雨になりそうだと村の大人たちが話していた。

 洗濯物入れの籠を抱えて屋内に入る直前、二軒隣の機織りの家のミレイナに呼び止められた。

「アリエスお姉ちゃん、これ」

 まだ十にもならないミレイナの背に合わせて、アリエスは「なになに」と笑顔で屈み込む。アリエスが本当の妹のように可愛がっている彼女は、近くの花畑で摘んできたらしい薄紫色の小さなうさぎ草シクラメンの花をアリエスに見せてくれた。

「わあ、かわいい花束! お姉ちゃんにくれるの?」

 アリエスが笑みを深めると、ミレイナは満足そうに首を縦に振る。アリエスはミレイナの細い巻き毛を撫でて「ありがとう」と小さな花束を受け取った。

「ミレイナ、姿が見えないと思ったら、またこっちに来てたのね?」

 ミレイナの姉のタリアが妹を探して困り顔でやって来た。お喋り好きの近所の娘たちも一緒だ。タリアがミレイナの手を引いて一旦帰ってしまったのと引き換えに、亜麻色の髪の快活な少女がアリエスの方に近付いてきた。

「ねえ、アリエス、聞いて。さっきタリアにも話してきたんだけど。あたし、昨日隣の村の男の人から交際を申し込まれちゃったのよ」

 確か、彼女は数日前に男性と一緒に歩いていたことを仲間内から囃し立てられていたのだった。

「今度僕の村に来なよ、って言われたんですって。それってほとんど求婚の言葉よね」

 明るい榛色の髪の少女がそう相槌を打つ。次は年頃の乙女たちの輝かんばかりの眼差しがアリエスに向けられる番だった。

「ね、アリエスは無いの? そういう話」

「私は、無いかなぁ……」

 アリエスは曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。あなたはどうなの、と榛色の髪の少女に尋ね返そうとしたとき、大通りのほうに何やら物々しく行進を続ける立派な身なりの男性たちの姿が見えた。アリエスの視線につられて、二人の少女も後ろを振り返る。

「……今日も来てるわね。王宮の兵士さんたち」

 亜麻色の髪の少女が声を低めて囁く。榛色の髪の少女が二人にもっとそばに寄るように目線で指示して、彼女らにそっと耳打ちした。

「あたし、こんな話を聞いたのよ。あれは、王宮から消えてしまった王様と、婚約者である東の国の王女様を捜しているんですって。なんでも、お二人は駆け落ちしたんじゃないかって噂よ」

「えっ?」

 アリエスたちの声は自然と大きくなり、榛色の髪の少女を「しーっ、静かに」と慌てさせた。王宮から遠いこの辺境の村にまで首都の噂が流れてくるには相当な時間差がある。そも、よほどの内容でない限り、こんな田舎まで噂が回ってこないことのほうが多いのだ。そう、それこそ今回のように、国王と婚約者が揃って姿を消したなどという、大きすぎる出来事でもなければ。

 次いで、不思議そうに眉を顰めて話を聞いていた亜麻色の髪の少女が口を挟んだ。

「あたしのお兄が昨日兵士さんに声を掛けられたんだけど、王様と王女様を見かけなかったかって訊かれた後、妙なことを訊かれたのを覚えてるって言ってたわ。この村に魔術師はいないか、って」

「魔術師?」

 二人の娘の会話を聞いて、アリエスは背筋に何か冷たいものが走ったような気がして密かに息を呑んだ。円い目を白黒させて友人たちの様子をうかがうが、幸い、彼女らはお喋りに夢中で、アリエスの顔色の微妙な変化には気付かなかったようだ。

「一体どうして今になって魔術師なんかを捜しているのかしら?」

「さあ……。それも、王宮のえらい大臣様のご命令なんですって」

「魔術師って、今はすごく数が少ないんでしょう? こんな辺境の小さな村の中でなんて見つかりっこないのにね。もしこの村に魔術師がいたら、みんなとっくに知ってるわよ。それこそ、村じゅうの噂になってるはずだもの」

「あたしたち、魔術師に会うことなんてないものね。一体どこに住んでるのかしら? くらーい洞窟の中で、一人で呪文を唱えていたりして」

「ひどく偏屈で、人嫌いだって聞いたわ」

「もしかしたら、あまりに醜い顔を隠したいから、人里を離れて暮らしているんじゃない?」

「…………」

 アリエスは笑って話を合わせられる自信が無いと焦っていることを悟られぬように、ひたすら洗濯籠の中の布の数を目視で数えるふりをして目線を下に落としていた。だが、そのうちにアリエスは本当に今日の洗濯物に対して違和感を覚えた。どうも、いつもの洗濯の時よりも軽くて嵩も足りないような気がする。

「あ……」

 今日一日の行動を脳内で早回しをして振り返り、アリエスは心当たりを見つけた。おそらく、森の中の清水で洗濯をした後に、敷布を一枚回収し忘れたのだ。

 アリエスは友人たちに経緯を説明し、「えーっと、私、もう一度森に戻って、敷布を取ってくるね」と、愛想笑いとともにぎこちなく手を振ってその場を辞した。早足で森へ向かう背に、「アリエス、これから雨が降りそうだから気をつけて行ってきてねー」という声が聞こえてきた。


 誰も追いかけて来やしないのに、アリエスはまるで何かから逃げるように夢中で森へと向かった。なるべく誰にも会わぬように、周りの音が聞こえぬように早足で歩いた。

 森の奥の渓流のほとりに辿り着く頃には、アリエスの息はだいぶ上がっていた。

「あー、あった……」

 置き忘れた白い敷布が岩の上にそのまま残っているのを発見して脱力する。あとはこれを回収して家の前に戻れば、全てが元通りだ。

 ――戻りたくないな。

 アリエスの唇から自然に溜息が零れ出た。髪で顔が隠れてしまいそうなほど深く俯き、手に取った白い敷布を意味もなく眺めて、しばらくその場に立ち尽くす。

 静寂を破ったのは、茂みが激しく揺れる音だった。何か生き物がそこらで動いていて、しかもそれは徐々に近付いてくるようだ。――もし、このあいだ貴重な作物を荒らしていった兎だったら容赦はするまい。アリエスは細い枯れ枝を槍に見立てて身体の前で構え、まだ見ぬ野生動物が潜む茂みに向かって申し訳程度の戦闘体勢をとった。

 しかし、結論から言うとその威嚇は無駄に終わった。ひときわ大きな葉擦れの音とともにアリエスの前に躍り出たというより飛び立っていったのは、黒い大きな烏だった。

「なんだ、脅かさないでよ……」

 アリエスはひとまずほっと胸を撫で下ろしてひとつ息をついたが、事はこれだけで終わらなかった。アリエスが森の出口のほうへと踵を返す前に、今度はどこからか男の声が聞こえたのだ。

「いたぞ! そっちへ逃げた」

「今度こそ確実に捕えろ!」

 茂みを踏み分ける音の数から察するに、四、五人ほどはいるのではないかと思われた。アリエスがどうしたものかと対応を決めかねて落ち着きなく右へ左へとサンダルの先を彷徨わせているうちに、茂みの向こうからまた何かの生き物が勢いよく現れた。それは一つの人影だった。そう――人間の男のように見えた。

 ――誰?

 アリエスは反射的にたじろいで、その人影と逆にまともに目を合わせてしまった。肩まで伸ばして結った煉瓦色の髪に、黒に近い焦げ茶色の、意志の強そうな瞳。十分に歳若い青年に見えるが、今年十六を迎えたばかりのアリエスよりは流石にいくらか歳上だろうか。いや、実際は彼の容貌についてよりも、出で立ちのほうがよほどアリエスの注意を引いた。彼の衣服は襤褸布同然で、右肩から腰にかけてが大きく破かれており、彼の肌の至るところに、全てが最近付けられたというわけではなさそうな無数の傷跡が走っていた。特に右肩の一帯は夥しい量の血で赤黒く染まっていて、正直、本来であればとてもこんなふうに普通に立っていられる状態ではないように見える。

「あの……」

 アリエスが恐る恐る半歩踏み出して彼に声をかけようとしたとき、先ほどから誰かを捜しているらしい「こっちだ」という男の声が二人のすぐ近くの茂みのほうから聞こえた。青年はその声が聞こえた方角へと厳しい視線を一瞬だけ送り、その瞳で今度は自身と相対しているアリエスの方を見据えると、アリエスの歩幅にして五・六歩分はありそうな距離を大股の数歩であっという間に縮めて――アリエスの背後から逆側の肩に左腕を回し、どこから取り出したのか、鈍く光る短剣の切っ先を彼女の首筋に突きつけた。それとほぼ同時に騒々しい足音がして、ついに先ほどから声だけが聞こえていた者らが二人の前に正体を見せた。男たちはこの煉瓦色の髪の青年とは対照的に随分立派な甲冑を身に着けていて、彼らが王宮からの命令で派遣された兵士であることが推察できた。では、先ほどから捜していたのは、まさに今アリエスを刃物で脅しているこの青年か。

「近付くな」

 青年はよく通る声で兵士に向かって短く告げた。兵士らが「人質をとったか」「外道な」と青年に得物を向けながら口々に苛む声が聞こえてくる。アリエスもせめて文句を言ってやろうと、身を捩って「ちょっと……」と言いかけたところで、すかさず彼の掌で口を塞がれた。血と砂の入り交じった匂いがした。尚も暴れて軛を逃れようとするアリエスの耳元で、青年は彼女にだけ聞こえる声量で素早く告げる。

「悪い。もう少しだけ我慢してくれ」

 その声色があまりにも意外なものだったので、アリエスは思いがけず抵抗する気力を削がれて、ただただ目を丸くした。隙を見て青年の横顔を盗み見ると、彼は真剣そのものの眼差しで兵士だけを睨みつけている。

「この期に及んで罪無き村人を巻き込むなど、どれだけ罪を重ねるつもりだ。その娘を解放しろ」

「嫌だね。罪深いのはどっちだよ」

 人質のアリエスを挟んで、双方一歩も退かぬ睨み合いが続く。その間にも、兵士は気付かれぬほど僅かずつ青年との距離を縮め続けている。

 その状態が暫く続いた後、やがて危うい均衡を破ったのは青年のほうだった。十分に時機をはかって、アリエスの耳元で「走るぞ」と鋭く囁き、彼女の首筋から短剣を離すと同時に、アリエスの手を取って背後の森の奥へと走り始めたのだ。

「待て!」

 当然、それを合図に兵士たちも動き出す。兵士が持っていた弓矢が後ろから数本射かけられたが、幸いどれも回避した。アリエスは青年に手を引かれ、夢中で樹々の間を縫って逃げた。よく考えればアリエスまで逃げる道理は無いのだろうけれど、青年は樹々の間を逃げている間もアリエスの手を離そうとはしなかったし、また、アリエスの方から手を振り解くという考えも不思議と浮かばなかった。

「……流石に撒いたか」

 樹木の包囲が途切れた小さな広場のような場所に辿り着き、青年は肩で息をしながら周囲を見渡した。

「一体……何がどうなって……」

 アリエスも息苦しさの合間になんとか独り言を漏らし、それから青年に腕を掴まれたままだったことをはっと思い出して、「離して」と彼の手を振り解いた。青年は「ああ……」とだけ言って素直に手を離した。アリエスは彼に先ほど刃物を向けられたことをまだ許していないということを表明するために、安全な距離を取りつつも無言で彼を睨みつける。

「悪かったよ。怖い思いさせて」

 青年は意外にも殊勝に瞳を伏せ、アリエスとの距離をそれ以上詰めてこようとはしなかった。

「…………」

 アリエスはどういう態度で応じるべきか戸惑い、何も返答することができなかった。その代わり、相手の出方を見るため、また状況整理を進めるために、おそるおそるではあるが、いくつか尋ねてみることにした。

「……あなたを追っていたあの人たちは、身なりから見て王宮の兵士なのよね?」

 青年は思いのほか躊躇いを見せず、「ああ」とすぐに首肯した。

「そうだ。しばらく前から追われてる。あいつらから見たら、おれは反逆者なんだろう」

 含みのある言い方が気に掛かった。この目の前の人物は真実を口にしているのか、それとも私を欺いて同情でも誘おうとしているんだろうか。アリエスが青年を見つめたまま黙っていると、青年は力無く苦笑して、持っていた短剣を足元の茂みに放った。

「じきに日が暮れて雨が降る。それまでにこの森を出たほうがいい。お尋ね者のおれはあんたの村まで送ってやることはできないが、村の近くまでなら……」

 そう言って差し出された手をアリエスは一瞥したが、彼の手をとる気にはなれず、首を横に振って拒絶した。

「結構よ。あんなことがあった後だもの、信じられるわけないでしょ」

 青年はわずかに瞠目し、当然か、と言わんばかりにひとつ息をついて「わかった」とアリエスとの会話を打ち切った。アリエスは日が暮れる前に森を抜けてしまうつもりで、元来た道を辿るために青年の隣を通り抜けようとする。そのとき、視界の端に青年の身体が傾ぐのが見えた。彼は食い縛った歯の間から細い呻き声を漏らし、そのまま地面に膝をついた。アリエスはそこで初めて、彼の上衣が血に塗れていたことを思い出した。反射的に彼に駆け寄ってしゃがみ込み、顔色を窺ってみると、唇まで蒼白で、激しい痛みに耐えるように肩で息をしているのが見て取れた。先ほど走った時に傷口が開いて血が失われ、ついに立っていられなくなったのだろう。見ると、彼の右肩から鮮やかな血液が後から後から肘の方へと流れて滴っている。

「大変。水で清めないと……」

 アリエスは自然な動作で指を空中に掲げたが、それから次の行動に移る前にひととき躊躇った。

 ――でも……

 こうしている間にも、アリエスが掌で触れている彼の背中からはどんどん体温が失われ、呼吸も弱くなってきている。アリエスは流石に迷っている場合ではないと自分に言い聞かせて首を振り、目を閉じて意識を集中させた。

 ――水の精霊よ、私に力を貸して。

 衣の下に隠した胸元の首飾りの貴石ほうせきが淡い光を放つ。次いで、水の流れる音が聞こえる方角へとアリエスが指を向けると、離れた場所にある渓流の水が、躍るように空中で蛇行しながらアリエスの手元へと集まってきた。アリエスがその水で彼の肩の傷口を清めていると、青年がおそらく朦朧とした意識のなかで、「あんたは……」と驚いたように呟くのが聞こえた。それはそうだろう、アリエスが人前で魔術を使ったのはこれがほとんど初めてだ。アリエスは珍しいものを見るような彼の視線には気付かなかった振りをしながら、自分の衣の裾を裂いて包帯をつくり、彼の二の腕に結わえようとした。

 そのときだった。彼はこれほどの出血にもかかわらず、驚くべき精神力で身体を動かし、アリエスの手首を強い力で掴んだ。

「……見つけた」

「え?」

 アリエスが聞き返すと、彼は顔を上げた。深い茶色の瞳の中には、思わず言葉を失うほどの切実さが宿っている。

「おれはずっと探していたんだ。“魔術師”を――」

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